私の実家には、庭に大きな桜の木がありました。
今はもう切って、なくなってしまいましたが、当時は大木でした。
春になれば、立派な桜が満開に咲き乱れます。
春には、家族が庭でお花見をするのが恒例になっていました。
その桜も、しばらく経てば花が散り、まもなく夏を迎えると、次はセミたちのすみかになりました。
大きな桜の木いっぱいにセミがつき、大声で鳴きます。
騒音といってもいいほどのうるさい音です。
目の前にある桜の木に、たくさんのセミがいるので、よく網を使ってセミを捕まえていました。
問題が起こったのは、捕まえた籠の中に入れた次の日でした。
あれほど元気でうるさかったセミのほとんどが、籠の中で死んでいます。
生き永らえたとしても、ほんの数日。
実は、土の中にいる時間は5年から7年と長いですが、成虫になってからは1週間ほどしか生きられない昆虫です。
捕まえたと思ったら、あっという間に死んでしまいます。
私はそのとき、生き物は最後には死を迎えることを学びます。
あれほど元気に飛び回っていたセミが、ぴくりとも動かなくなります。
実家は、田舎にあります。
セミに限らず、アゲハチョウ・カエル・トンボ・アメンボ・ホタルもいました。
川には、なんとザリガニさえいたくらいです。
夏には、夜中、ホタルが飛び回っていました。
動物園の中に実家があるようでした。
大きな虫取り網を持って、視界に入ってくるあらゆる昆虫たちを捕まえました。
捕まえては籠に入れましたが、最後はみんな、同じでした。
必ず死んでしまいます。
私はそれを見て、どん底に落とされたような気持ちになりました。
昆虫たちを捕まえては、必ず最後には死んで、動かなくなる。
「自分もいつかそうなるのか」
自分の行く末を見た気がしました。
生きているということは、最後には必ず死を迎えるということ。
「死にたくないよ。嫌だ!」
私は怖くなって親にしがみつき、泣きわめいたことがあります。
子どもながら、絶望を感じました。
生きていることは素晴らしいですが、その反面、必ずいつかやってくる死に怯えていました。
数多くの昆虫たちの死を見ることで、昔から死について、よく考える性分になりました。
「必ず最後には死ぬ」
今この瞬間でも、その意識は変わりません。
たくさんの昆虫たちの死に触れたことはつらく悲しいことでした。
しかし、昆虫たちの死の瞬間から、大切なメッセージを受け取った気がしました。
「現実をしっかり生きてほしい。生きている時間を大事にしてほしい」というメッセージです。
かなり若い時期から「生きること」については、よく考える性格になりました。
「どういう人生を送ればいいのか」
「どのような生き方が望ましいのか」
考えた末に見つけたのは「自分を生かす生き方」でした。
自分が好きなことをして、自分が輝く。
輝いた自分がほかの人を照らし、他人にも喜びを与える。
太陽のように自他ともに輝く理想的な生き方を見つけました。
HAPPY LIFESTYLEでも、生と死について触れる文章が多いですが、実はそうした経緯があります。
いつまでもつかはわかりませんが、死ぬまでHAPPY LIFESTYLEは続けていくつもりです。
多くの昆虫たちの死を見てきたため、生きている時間を貴重に過ごしていきたい気持ちが、より強くなったのです。