はるか昔、まだ私が幼いころです。
たしか幼稚園に入園したばかりのころだったと思います。
ある日、親から「お墓参り」なるものに行くと言われ、とぼとぼついていった記憶があります。
お墓参りの意味はわかりませんでしたが、とりあえず家族で出かけました。
水口家のお墓は、小高い山の上にあります。
「誰か特別な人に会うのかな?」
行った先にあるのは、大きな石でした。
たいていお墓参りは、1カ所だけではなく、複数の墓地を巡ります。
どこのお墓に行っても、あるのは大きな石だけ。
別に人がいるわけでも、誰かに会いに行くわけでもない。
そんな大きな石を掃除して、手を合わせて拝むだけ。
何の意味があるのだろうと思っていました。
お墓参りとは大きな石を掃除するものだと思っていました。
もしかしたら以前に、親から「お墓参り」の説明を受けていたのかもしれませんが、覚えていません。
「ご先祖様」という意味がわからなかったり「死」のイメージがわからなかったりして、理解できていなかったのだと思います。
子どもに「ご先祖様」という言葉を使っても、まだ通じません。
ご先祖様と言わず「お父さんのお父さんのお父さん」というほうが、まだ直感的でわかりやすい。
ある日、母から「ご先祖様とはお父さんのお父さんのお父さん」という説明を聞いて、ようやく意味がわかり始めました。
「おじいちゃんより昔に生きていた人」
ようやくですが意味がわかり始めました。
しかし、です。
そのことが、まだ信じられませんでした。
頭で理解できても、まだ実感が湧きません。
当時、まだ一度も人の死に遭遇したことがなく「人はいつか死ぬ」ということすら空想の世界のような話だと思っていました。
お墓参りの意味がきちんと理解できず、自分のご先祖様が眠っているという実感が湧きませんでした。
「嘘だ! 信じられない!」
どうしても信じようとしない私を見るに見かねて、祖父は驚くべき行動を取ります。
なんと墓石をずらして、本物の骨が入っているところを見せました。
今でもその光景ははっきり覚えています。
ひときわ古い壺の中に、たしかに本物の骨が入っていました。
かなり強烈な光景でした。
「これがお前のご先祖様の骨だ」
「うわっ、本当だ。気持ち悪い!」
骨を見ると、やはり驚かずにはいられません。
実際に手にとって、触ってみました。
自分が生まれる前に、お世話になった人の骨。
この世にはもういない。
何か骨の重さ以外の、違った重みを感じました。
もちろん墓石をずらすのは、ご先祖様も喜ばないでしょう。
しかし、信用しようとしない孫への特別措置でした。
「今、自分が生きているというのは偶然ではない」
それを教える機会です。
自分には父がいて、その父にも父がいて、さらにその父にも父がいる。
長い時間を経た、遺伝子のつながりがある。
遺伝子のつながりや、過去のご先祖様のおかげで、今の自分がいることを必死に教えようとしていました。
「このお墓の下には、自分のご先祖様が眠っている。この人がいなければ今日の自分もいなかった」
そういうことをしっかり実感させるのも、親のしつけの1つです。
お墓参りの意味を徹底的に子どもに教える。
ご先祖様への感謝の気持ちを持たせるということです。
もうこの世にはいないけれど、自分が生まれる以前、とてもお世話になった人がいたのです。