行儀が何かをまだ理解していないのに「行儀よくしましょう」というのは、難しいことです。
すでに物心がついている年ごろなら「行儀よくしましょう」という言い方も通じることでしょう。
しかし、まだ右も左もわかっていない幼い子どもは、まだ行儀なるものを理解できません。
親が「行儀よくしましょう」という言葉から「それはいいことなのだな」とはなんとなく理解します。
ですが「これが行儀だ」というのはよくわかっていない。
子どもに「行儀」についてしつけるときは、難しい理屈は抜きで結構です。
「人と会ったら挨拶をする」「脱いだ靴は揃える」など、こういうときはそういうことをするものだと教えます。
理屈抜きで「行儀のいい動き」を教え、当たり前だと思うようになるため、周りからは「行儀がいいね」と言われるようになります。
本人は行儀を理解していなくても、自然と行儀のいい行動を実行できるようになります。
さて、ここですべての親が経験するであろう問題が発生します。
しつけることは、見方を変えれば、子どもを型にはめることにもなります。
子どもとしては、自由活発に動き回りたいところです。
行儀というのは、言い換えれば「動きの制限」です。
靴を脱いだら、そのままほったらかしにするほうが楽です。
しかし、行儀を意識すると、わざわざ足を止め、かがんで靴を揃えなければなりません。
「きちんと靴を揃えましょう」という親が、うるさく感じる。
幼い子どもは、親に対して「しつけてくれてありがとう」とは言いません。
言うはずがありません。
「いちいちうるさいなあ」と、歯向かいます。
親があれやこれやと口うるさいので、子どもは親からのしつけが、口うるさく感じます。
まだこの時期は、子どもは行儀を理解できていないので、当然素晴らしさも理解できていない。
なぜ親はこんな面倒なことばかりを教えるのかと思います。
親は、子どもから嫌われるのを覚悟することです。
感謝されないのも当然です。
親は、初めから感謝を求めてはいけません。
いえ、感謝されるどころか、子どもからうるさく言われるので、煙たがられるはずです。
そういうものです。
子どもは成長して、多くの友人ができ、多くの刺激を吸収し成長することでしょう。
そんな多くの出会いの中、自分と他人との行動を比べたとき「おや?」と思うようになります。
自分が当たり前だと思っている行動と、そうでない行動との違いが見えてくるようになります。
自分は靴を脱いだら揃えるのが当たり前だと思っているのに、ほかの人はそうしない場面を目にするでしょう。
そのとき「靴を揃えていると気持ちいいな」と実感できます。
自分が当たり前だと思っている行動は、ほかの人と比べると、マナーがあるのだと気づき始めます。
そのときです。
ようやく、子どもは「なるほど。これが行儀なのか」と理解できます。
自分と他人の習慣を比べ「行儀の善しあし」を、直感的に理解するようになります。
親から素晴らしいしつけを施されていたことに気づき、親に感謝するようになります。
しつけで、親が子どもから感謝されるのは、ずっと後になってからです。
一転して、口うるさかった親を急に感謝するようになります。
それまで、しばらく時間がかかります。
そのときまで、親は嫌われ続けるのが宿命なのです。