中学2年生のときに、私はマラソン大会に出場しました。
マラソン大会に出場するのは、代表者でもなく、成績優秀者でもなく、希望者でした。
私は自分から進んで希望し、マラソン大会に出たことがあります。
私は、マラソンは速くはありませんが、挑戦してみたい気持ちがあり、自分から希望して出場しました。
今考えると、よくもまあ自分から希望したなと思います。
実際に走り始めたとき、そのマラソン大会での出場者は県レベルの強豪ぞろいであることに気づきました。
私はそんなことも知らず、のこのこマラソン大会に出てしまっていたのです。
結果はもちろん、最悪でした。
最下位はもちろんのこと、それも圧倒的な最下位でした。
母はそのときに応援しに来ていました。
最下位の結果しか出せなかった私は、母にどんな顔をしていいのか、わかりませんでした。
最下位の結果でぼろぼろだったのに、母は私に何も言いませんでした。
帰りの車の中でも沈黙でしたが、私の頭の中はたくさんのことを考えていました。
「なぜあれほど遅れたのか。最初にペースを上げすぎたせいかな。出場すべきではなかったかな。母はどう思っているだろうか」
ずっと考えていました。
最下位という惨めな結果だったため、余計に考えていました。
それでも母は、私に何も話しかけませんでした。
というより、母はわざと話しかけないでいてくれたのです。
母は、私が考え、反省し、学び取る時間をあえて邪魔しないでいてくれたのです。
普通だったら「何をやっているの。かっこ悪い。もっと速く走れるようになりなさい」と、言われてしまうところです。
しかし、母は何も言いませんでした。
逆に、そのおかげで私は「自分で自分のことを考える」が、できていたのです。
この自分で自分のことを考える時間は、貴重な時間です。
「自立」という字が「自分」で「立つ」と書くように、自分で自分のことを考えるようにならなければ、自立にはつながりません。
本当の先生は、お父さんお母さん、学校の先生ではありません。
自分なのです。
母は何も言わず、自分で自分のことを考える余裕を与えてくれていたのでした。
今、あの沈黙は母の優しさだったのだなと、気づいているのでした。