私の実家は、兼業農家です。
週末の朝は「おい、貴博。今日も手伝ってくれ」という父の一声で、叩き起こされていました。
夏場の週末には、ミカンもぎの手伝いが慣例でした。
ミカン1個は片手で持てるほどの軽さです。
しかし、大きな籠に何十個ものミカンを詰めると、相当な重さになります。
籠を持ち上げて運びますが、まだ小学校低学年だった私には、1人では持ちきれない重さでした。
そういうとき、父はある行動に出ました。
2つある「取っ手」のうち、一方を父が持ち、もう一方を私が持つようにしました。
1つの荷物を、父と子の2人で運ぶイメージです。
重さは2分の1になります。
重さが2分の1になれば、小学生の私でも何とか持てる重さになりました。
しかし、です。
当時、この手伝いが不思議でなりませんでした。
作業効率が悪いです。
父は力があるので、1人で荷物を持て、しかも仕事が速い。
一方、私1人では荷物が持てず、父からの協力が必要だった。
父1人がやったほうが速い仕事なのに、なぜ私にわざわざ手伝わせるのかと思います。
子どもに手伝わせることで、仕事がはかどるどころか、効率が悪くなっていました。
幼い子どもでも、その効率の悪さはよくわかるほど明らかでした。
往々にして、仕事の現場でもそういう現象が起こります。
部下に任せるより、熟練した上司が1人で仕事をしたほうが、質もスピードも速いことがあります。
では、なぜ父は仕事の効率を下げてまで、私を手伝わせたのか。
それは家の手伝いを通して、子どもの健全な発育を促すのが目的でした。
「手伝い」という名前がついていながらも、その実態は「体育の授業」です。
成長盛りの子どもは、学校の体育の時間では全然足りません。
足りない分は、家庭内で補う必要があります。
父は、力の必要な家の手伝いを通して、子どもの健全な発育を促そうとしていました。
手伝いとしての作業効率は下がりますが、子どもには体育の授業の一環になり、力をつけます。
すべての「手伝い」はそうです。
私の場合は農家だったので、特に力のある手伝いを任される機会が多かったですが、ほかの家庭でも通じる話です。
手伝いはすべて子どもの発育を促す機会になります。
犬の散歩・庭の掃除・食器洗い・布団干し。
布団は結構重いですから、いい運動になるでしょう。
すべて手伝いという名前がついていながら、体育の授業になります。
子どもが体を動かす機会になり、どんどん成長が促されるのです。