水口家には、大きな座敷があります。
子どものころ、その大きな座敷は遊び場になっていました。
柔らかい緑色のじゅうたんが敷かれてあったので、けがをする心配もありません。
比較的、体を使った激しい遊びは座敷でするものと決まっていました。
特に父と座敷で遊んだ記憶は、今でもよく覚えています。
どんな遊びかというと、何のことはない「跳び箱」です。
跳び箱をわざわざ準備するのではなく、父が座敷の真ん中で四つん這いになり、跳び箱の代わりになります。
私は、助走をつけて、父の背中を飛び越えていました。
初めは跳び箱の高さも低いですが、飛び越えるたびに、父が少しずつ腰を上げて高さを上げていきます。
飛び越えるたびに、父が褒めてくれます。
「おっ。すごいなあ。じゃあもう少し高くするぞ」
次第に跳び箱が高くなります。
まさに「人間跳び箱」です。
単純な遊びですが、面白くてたまりませんでした。
本物の跳び箱があって、一人で飛び越えるだけでは面白くないですが、なぜか父親が跳び箱になると、面白くなります。
自分だけではなく、父と遊んでいるという家族意識。
「跳び箱が跳べた!」という嬉しさ。
父に見られているという安心感。
飛び越えるたびに父に褒められるという快感。
もっと父に褒められたいと思い、やる気を出す。
どんなおもちゃで遊ぶより楽しく感じました。
おもちゃで遊んだ記憶より、はっきり記憶に残っています。
父と遊んだ跳び箱の記憶は、昨日の出来事であるかのように覚えています。
子どもにおもちゃさえ買い与えればいい、という問題ではありません。
たしかにおもちゃも楽しくて面白いですが、何か人の温かさに欠ける部分があります。
子どもにとって一番の遊び相手は、やはり両親です。
とりわけ、力の強い父親は、子どもの遊び相手にはうってつけなのです。