人と才能との関係は、花とその美しさの関係によく似ています。
花はまず芽を出し、茎を伸ばし、最後にきれいで大きな花を開かせます。
これは人の一生でいうと、才能を見つけ、磨いて大きくさせ、最後に活用することで生かす段階に当たります。
しかし、花には、最後に朽ち果てるという結末が待っています。
考えたくない現実ですが、どんなに美しい花もそれは永遠というわけではなく、最後には枯れて、朽ち果ててしまうのです。
花はそれを知ってか、種の存続を願うためタネをばらまきます。
タネをばらまいて、自分が朽ち果てた後でも同じような美しさを持つ花を次の世代へと引き継がせていきます。
人間も同じです。
どんなに恵まれた才能の持ち主でも、いずれ寿命を迎え、死に至ることになります。
人生のある一点が折り返し地点となり、逆らうにも逆らえない時間という絶対的な流れによって体は衰えます。
できることもできなくなり、やがて病や老衰のため、一生を終えることになります。
絵の才能を持っている人だけ寿命が長くなるわけでもなく、世界一のスケートができるからと10歳若返ることもありません。
年齢と時間は、あらゆる万物に公平であり、これに逆らうことはできないのです。
才能のある人たちは「才能を次の世代へ引き継がせたい」と思います。
自分が死んでからも、その素晴らしさが継続されることを願うかのように、芸術なり技術なりを後世に残そうとします。
それが「才能を活用して教えていく」という運動に表れます。
体操のオリンピック選手が体操教室を開いて先生となり、子どもたちに体操を教えるということがよくあります。
また世界プロボクサーのチャンピオンがジムを開いて、ほかのボクサーを育てるということもあります。
また漫才師には弟子をつけ、自分の才能を弟子に見せることで表現や話術を盗ませようとします。
自分が磨き上げたことを、弟子に分け与えることで成長の踏み台にしてもらうためです。
さらに高いところへとレベルアップしてもらいたい気持ちがあるからです。
自分が十分に楽しみきり、満足すれば、今度は人のために役立てたい気持ちへと移り変わります。
自分だけが楽しんでばかりでは申し訳がなく、ほかの人のために自分を動かしたくなるのです。
私は読書が習慣になっており、今までに何千冊と本を読んできました。
この時間は、充実していました。
今思い返しても、素晴らしい知恵を盛り込んだストーリーや偉人の伝記などにたくさん触れることができたことは、贅沢でした。
これだけの楽しみを自分一人が受け取ってきたことに「満足」と「罪悪感」の2つがあるのも事実です。
「これほど素晴らしい知恵を自分だけが知っていてはもったいない。ほかの人にも知ってもらいたい」
たくさん本を読んで、知恵が蓄えられていくと、自分の中のコップがあふれ出るようになり、気持ちの中に満足が生まれたわけです。
もっと本を読んで楽しみたい気持ちはありますが、ひととおり楽しみは十分に受け取ったという「気持ちの区切り」ができたのです。
今このように文章を書いているのは、コップの水があふれた部分に当たります。
満足という器に、楽しさや嬉しさが十分に満たされ、ついにはあふれ出してしまいました。
たくさんの本を読めば読むほど「こんな素晴らしい話を、次の世代へも残していきたい」という気持ちになります。
最初はそんなことを考えもしなかったのですが、考えるようになってしまうのです。
それがこの執筆活動です。
活用する段階であり、次の世代への引き継ぎです。
私がこの世から消えてしまう前に、次の世代の人たちにバトンタッチすることで、読者が楽しみや知恵を受け取れるのです。
花でいえば、朽ち果てる前にタネをばらまいているようなものなのです。