あなたは才能という言葉を聞いて、何を連想しますか。
おおよそ、特別なことと思っているのではないでしょうか。
神に選ばれた天性に恵まれた人。
途中で、つまずきやすい石があります。
「得点」「点数」「偏差値」です。
自分の客観的な評価を目に見える数字にしてしまうことではっきりわかり、自分の能力の物差しにできます。
才能を開花させる前に、自分の好きなことに気づく必要があります。
本当に好きなことを見つけていれば、もう才能は半分開花させているも同然です。
心から本当に喜べる好きなことがまだ花の芽が出る前の状態でも、大丈夫です。
自分が好きと感じていても、どのくらいまで本当に好きなのかはなかなかわかりにくいものです。
好きは好きでも度合いがあり、強烈に楽しいと感じられる好きが、才能の正体だからです。
本当に好きなことかどうかを見分けるポイントは、どこにあるのでしょうか。
好きなことは、意識的に行っていることではありません。
無意識的に行っていることです。
無理やり自分をコントロールさせているのではなく、考えてもいないのに勝手に体が動いてしまい、そうしてしまうことです。
自分の好きなこと、すなわち才能を磨くときに、誰かと競争してはいけません。
競争をすると、自分のペースが崩れてしまい、自分ではなくなります。
どのくらいの時間にどのくらいの集中でやればいいのかは、本当は自分がいちばんよく知っています。
「ただの能力で終わらせてしまう人」と「才能を開花させることができる人」がいます。
この2人の違いは、見た目ではわかりません。
あること一点に集中している姿は、どちらも同じです。
コンプレックスには、才能になる可能性が隠されています。
「かっこいいところを見せたい」と努力するより「かっこ悪いところを見られたくない」という努力のほうが力強い原動力になります。
人にはそれぞれ固有のコンプレックスがあります。
私は自分が好きだと思うことは、難しくても楽しいと感じます。
難しいからこそ、やりがいがあります。
わからないところがあると、嬉しくて仕方ないのです。
人間の能力には「得意なこと」と「好きなこと」の2つがあります。
似たような印象を受けますが、実態はまったく別物になります。
得意なこととは先天的であり、好きなことは後天的です。
生まれつき得意なことというのは、実際に存在します。
運動神経が良かったり、つくるのが得意であったりと、その人が生まれつきすでに持っている特性というのは存在します。
私だって同じです。
私は子どものころ、いろいろなことをさせてもらいました。
たくさん三日坊主をさせてもらったことを、今でも親に感謝しています。
海外旅行、留学、勉強、畑仕事、習い事など、いろいろとやらせてもらいました。
自分で才能チェックができる簡単な方法があります。
「消去法」です。
自分に何が向いて得意としているのか、それをやって実際に自分が楽しいと感じるかどうかは、やってみないとわかりません。
才能という響きがあるからと言って、世界でいちばんの実力を持っていなければならないと思っていませんか。
他人より優れた能力がないと、才能と呼べないと思い込んでいませんか。
たしかに世の中には、ナンバーワンの能力という意味で才能を発揮している人がいます。
自分があえて努力をしなくても、結果としてすでに長続きしていることは、それそのものがもはや才能です。
長続きをしているということは、自分が好き好んでいるからこそ続いているという本物の証拠です。
小さいころから長続きしていることは、大人になるにつれ、能力が上がります。
「しなければならない」と考えてしまうところに、才能はありません。
mustで考えてしまうことは、いやいやしないといけないという反発した気持ちが含まれています。
好きだからやっているわけではなく、そうしないと叱られるので、仕方なく体を動かしている感覚です。
人間はもともと弱い存在です。
弱いために見栄を張って強く見せたり、自分の存在に価値を付加させたいために肩書を求めたりします。
評価されるために体裁を気にします。
あなたは自分が持っている才能を、自分では「当たり前のこと」と思っています。
できて当たり前、やって当たり前、これくらい当たり前。
そのため自分が持っている能力を素通りし、大したことではないと思っています。
長く生きれば生きるほど、認めたくはないが、認めざるを得ない事実に気づきます。
それが何かというと「厳しい人生のほうが、実は良い人生につながっていく」ということです。
毎日が平凡で波のない生活より、会社の上司に叱られたり、親に怒鳴られたりしたほうが、自分のためになります。
才能は「毎日やりたいと思うこと」にあります。
英会話に週1回だけ通う人を、ときどき見かけます。
英会話に通うのは素晴らしいことです。
「いつかしたい」と願っていることは、つまりそれほど捨てきれないという強い思いの表れです。
「できなければ、いいや」と諦めるのとは対照的に「できなくても、いつかしたい」と思うことは強い気持ちがあるのです。
人間の心理というのは、こうしたささいなところから垣間見えます。
好きなことは、すぐ終わってしまうとあっけないものです。
できればもっと長い時間、触れ続けていたいと思います。
才能の芽になる好きなことを見分けるためには、それに時間をかけたくなるかどうかを基準に判断すればいいのです。
私は昔から考えることが好きで、よく暇さえあればいろいろと考えていました。
何を考えていたのかというと、それこそ本当にいろいろなことについてです。
人生について、自分の将来について、自分について、勉強について、幸せについて……。
「must」と考えていることには、本当の才能は存在しないと思ってください。
「must」と考えることには「本当にやりたい」という気持ちはなく、むしろ半強制的な雰囲気があります。
ある行動に対して、自然と「must」と考えてしまうようなら、嫌な心持ちが混ざっているということです。
この2つが当てはまることは何でしょうか。
ちょっと振り返ってみましょう。
どうしてもやりたくて、邪魔をされてもなおやり続けてしまうこと。
「自分が生まれてきた理由、意味、役目」
これを見つけることができた人には、必ずほかと抜きんでた才能と呼ばれる力を付けることができます。
生きていることに、大きな意味を感じています。
生まれてから最も身近に見てきた存在といえば「親」です。
あなたがこの世に存在するということは、親がいるということ。
自分の両親は、生まれてからというものずっと目にしてきた存在ですから、親から受ける影響は大きい。
環境にしろ、友人関係にしろ、今のあなたが自然と人生を歩めているということは、その状態に感謝しておくことが大切です。
良いこと悪いことも、すべて含めてです。
生まれつき大きな努力を必要とせず、親や環境、友人、経験などがあなたの中に入ってきたことは、恵まれていることです。
世の中には、あなたの努力など関係なしに、生まれつきすでに決められていることがあります。
その1つがあなたの「環境」です。
あなたの環境とは、大きく分けて2つあります。
私は、今自分が行っていることには終わりのないことだと思っています。
自分が結論出したことを、HAPPY LIFESTYLEを通して公開しています。
生きているうちに気づいたことや学んだことを、また公開していくという、単純な繰り返しです。
あなたは才能という言葉を聞いて、何を連想しますか。
おおよそ、特別なことと思っているのではないでしょうか。
神に選ばれた天性に恵まれた人。
生まれつき、すでに抜きんでた能力を持っている人。
異常に上達が早い人。
素晴らしい技術を持った人。
こうした神の分身であるかのような秀でた能力のことを才能と思っていませんか。
たしかにそうした意味の才能もあるでしょう。
しかし、それは特殊です。
奇抜で、珍しい能力ということであり、いわば「天性の才能」と言われている能力のことです。
ここで言う「才能」という言葉は「天性の才能」ではなく「個性」とも言うべき能力のことを指しています。
才能は、一人ひとりが必ず持っているものです。
「見つけるもの」であり、ただそれを「生かしきっているかどうか」にすぎないことなのです。
では、その一人ひとりが見つけるものとは何か。
「好きなこと」です。
才能というのは、最初からあるわけではありません。
ある1つのことに絞り、続けて努力した結果、伸びた能力のことを言うのです。
何でもいいですから、人生の大半を1つのことに集中すれば、誰より抜きんでた能力を身につけることができます。
料理をつくるのが下手な人でも、仕事として、毎日料理ばかりをつくっていると、必ず料理上手になれます。
いくら車の運転が下手でも、タクシードライバーのように朝から晩まで運転し続けていると、運転がうまくなります。
頭が悪くても、受験勉強の波に立ち向かう学生のように勉強ばかりをしていれば、必ず頭が良くなります。
初めにどうあるかが問題なのではなく「何をどれくらい長く努力し続けることができたか」が最も重要なのです。
ここで、一点補足しておきたいことがあります。
飽きずに長く続けられることに、そうそう出会えるものではありません。
やっていれば必ず飽きるし、刺激がなくなり、つまらなくなります。
それが人間というものです。
料理ばかりやっていても苦痛になるし、運転ばかりしていてもマンネリになり、勉強ばかりやっていてもストレスがたまります。
「だったら何をやっても結局長続きしないから、同じことだ」
そう思ったのではないですか。
たしかにそうです。
何をやっていても、最後には刺激が薄れ、つまらなくなり、さじを投げてしまうでしょう。
人間ですから、当然のことです。
しかし、……、例外が1つだけあるのです。
才能に気づき、磨き、生かしている人は、この例外が当てはまります。
それが「好きなこと」です。
好きなことに関してだけは、唯一自分から努力する必要なく積極的になれ、すればするほど刺激的で面白くなります。
特別に自分をはやし立てなくても、勝手に体が動き始め、やっていてストレスになるどころか、ストレス解消にさえなります。
ほかの作業とは違い疲れにくく、どきどきという気持ちの高揚が加わります。
ですから長続きよりやめられないから、どんどんと上達して、最後には「才能」と呼ばれるほどの能力にまで輝くのです。
どういう能力でも、才能になります。
ただ才能と言われるくらいの力がつくまで、長続きするかどうかの問題なのです。
才能とは、ある努力を長期間にわたって続ければ、誰しも身につけることができてしまいます。
ただし長続きができるというのは、何でもそうであるわけでなく、好きなことでしか長続きがしないと言うことなのです。
才能という能力の糸をほどいて解き明かしていくと「好きなことだった」という原点にたどり着きます。
世に残る偉人たち(エジソン・アインシュタイン)だけでなく、スポーツ選手や学者、会社経営者なども同じです。
初めから特殊な才能があったわけではなく、好きだからこそ長く続けられ、素晴らしい能力にまで磨き上げることができたのです。
私だって同じです。
たくさん本を書き、文章を書いていますが、初めからうまく書く能力があったわけではありません。
「好きなことだからやっていて長く続けたからこうなった」というだけにすぎないのです。
書くためにはたくさんの読書が必要で、それも小さいころから好きであるゆえに、よく本を読んでいたものです。
決して苦痛ではありませんでした。
ただ楽しかったし、もっと続けたいと思うばかりでした。
決して勉強していたわけではなく、活字が好きで読んで理解して物事の真実を知ることが好きでした。
たくさんの本を読んで「遊んでいた」という感覚です。
私としてはまったく勉強している感覚はなく、むしろ遊んでいる感覚であり、疲れたときほど本を読もうとしてしまいます。
実際に本を読んでいると悩みや疲れが消えていき、元気になり、ストレスが解消されます。
だから長続きし、あるレベルにまで能力を引き上げることができたということなのです。
好きなことを子どものように遊んでいれば、嫌でも才能が身につくということです。
あなたの才能も同じことが言えます。
才能を探す前に、まず好きなことを探すことです。
あなたが今、日常生活の中で「好きだ」と思えることを探してみましょう。
「なぜ好きなのか」という理由は考える必要はありません。
好きに理由はなく、やっていてそれが自分に合っているから気持ちよくなれるのです。
初めは上手にできなくても、好きなことであるならばかまいません。
「それは何か意味があるの?」「大したことないじゃん」と他人から言われることでも、あなたが面白いと感じれば、結構です。
長続きしますから、いずれ素晴らしくうまくできるようになります。
「好きなことをする → 長続きする → 上手になる → 才能になる」
1つでも好きだな、やっていて面白いなと感じることがあれば、あなたの才能の原点です。
「こんなこと、大したことないよ」
「別に自慢することでも何でもない」
「人の役に立つことではないよ」
そんな声が聞こえてきそうですが、実際に好きなら関係がないはずです。
意外にあなたが陰でこそこそしていることが、才能の芽なのです。
途中で、つまずきやすい石があります。
「得点」「点数」「偏差値」です。
自分の客観的な評価を目に見える数字にしてしまうことではっきりわかり、自分の能力の物差しにできます。
誰でも最初からうまくできるわけがなく、得点や結果は目も当てられないようなものになります。
中には、練習していてもなかなか上達しないこともあるでしょう。
好きなことだからうまくできるであろうと思われがちですが「好きなこと」と「得意なこと」は違います。
得意なことは自分に適している能力であり、あらかじめ最初にある能力です。
こちらのほうが才能らしく聞こえるかもしれません。
しかし、あなたが磨くべきところは「得意なこと」より「好きなこと」に対してです。
得意なことを磨くエネルギーがあればその分「好きなこと」に回しましょう。
「得意なこと」のほうが上達も早いでしょうが、途中でやめてしまうなら、意味がないのです。
やめてしまっては、どんなにうまくてもすべてがパーになるのです。
なら、最初から長続きする好きなことにエネルギーを投下したほうが、賢い使い方です。
時には得意なことより上達が遅く、なかなか得点が上がらず結果も出なくていらいらすることもあるでしょう。
けれど、好きで長続きしてさえいれば、あなたはそれで満足するはずです。
「人にすごいと思われたいから」「かっこよく見られたいから」と人目を気にしてはいけません。
「人がなんと言おうと自分が楽しいから」を原点にするのです。
続けていれば、初めは下手でもいずれ必ず上手にできるようになります。
1つのことに「集中」して長期間の努力というエネルギーをつぎ込めば「得意なこと」より「好きなこと」のほうが上回ります。
子どもが遊びに夢中になっているような感覚がぴったりでしょう。
「いいかげんにしなさい」「もうやめなさい」とほかの人が言うくらい好きなことで遊んでいれば、自然と長続きし上達するのです。
才能を開花させる前に、自分の好きなことに気づく必要があります。
本当に好きなことを見つけていれば、もう才能は半分開花させているも同然です。
心から本当に喜べる好きなことがまだ花の芽が出る前の状態でも、大丈夫です。
しっかり水をやり続けていれば、いずれ必ず芽を出し、開花させる日がやってきます。
しかし、好きなことを見つけるまでが、大変なのです。
人は、人目を気にする生き物です。
体裁や見栄を先に考えてしまいやすい状態です。
これが意外な落とし穴になります。
たとえば、好きだと感じていることでも、実は他人から尊敬されたいからやっていることがあります。
人からすごいと言われることが快感で、自分の「好き」と勘違いしてしまうケースです。
体裁や見栄の入り交じったことは、本当の好きとは言えません。
人目を気にした行動です。
見分ける効果的な方法があります。
今あなたが打ち込んでいることがあるとします。
もしこの世から人がいなくなっても、同じように続けられるかどうか、想像してみましょう。
無人島で1人きりになっても、同じことをするかどうかです。
人がいないため、当然褒めてくれることはありません。
誰からも認められることもなく「すごい」「かっこいい」と話しかけてもらうことがなくなります。
それでもあなたは、続けることができるかどうかです。
極端な例ではありますが、だからこそ、確認しやすいのではないでしょうか。
もしそれでやめてしまうなら、自分のためではなく、人目を気にした行動である証拠です。
本当に自分が楽しいと思えることなら、人がいなくなっても、続けることができるはずです。
人のためにやっているわけではなく、自分のためにしていることですから、人がいなくなっても関係ないのです。
もし私が無人島にいたとしても、同じように「何のために生きているのだろう」という哲学的なことは考えているでしょう。
想像するに、おそらくとがった石を鉛筆の代わりにして、平らな石に書き込んでいると思います。
人がいてもいなくても、関係ありません。
私にとって好きなことですから、続けることができるのです。
自分が好きと感じていても、どのくらいまで本当に好きなのかはなかなかわかりにくいものです。
好きは好きでも度合いがあり、強烈に楽しいと感じられる好きが、才能の正体だからです。
本当に好きなことかどうかを見分けるポイントは、どこにあるのでしょうか。
それはあなたが「間違えても喜べるかどうか」にあります。
間違えていらいらしたり、怒りがこみ上げたりしてくるなら、本当に好きなことだとは言えません。
自分が好きだと感じていることは、他人の言葉は関係なく、助言や役立ったりするため、怒りがこみ上げるわけがないのです。
間違ってしまえばなおさらです。
好きなことなら、間違えても自分の向上につながることだとわかっていますから、いらいらするどころか楽しみになります。
「ここを直せばもっとうまくなれる。やった!」
このように、つまずきや失敗を喜べるはずなのです。
間違えても喜んでしまうことが、あなたの本当に好きなことです。
うまくできても楽しいし、間違っていても楽しい。
こんな楽しいことだらけが、本当に長続きをするというものなのです。
私はときどきお客さまから誤字脱字の報告を受けることがあります。
しかし、いらいらするということはなく、それをとても嬉しいことだと感じます。
間違っていることを指摘されるということは、そこを直せばもっとよくなるということですから、喜んでしまうくらいなのです。
好きなことは、意識的に行っていることではありません。
無意識的に行っていることです。
無理やり自分をコントロールさせているのではなく、考えてもいないのに勝手に体が動いてしまい、そうしてしまうことです。
知らず知らずにそうしてしまい、自分でもそうしていることに気づいていないくらいです。
たとえばダンスを踊ることが好きな人がいたとします。
その人はかっこよく踊ることで人から尊敬されることが目的ではなく、純粋に自分が楽しいからやっているのです。
こうした人は、いつも無意識的にそのことばかりを考えてしまっています。
無意識にタップを踏んでいたり、いつもダンスのことを考えていたり、生活の中にもダンスに結びつく何かがないかと探しています。
頭の片隅に「ダンス」という文字があり、そのことばかりを考えているので当たり前になり、こびりついて離れないのです。
知らず知らずにやってしまっていることほど、その人が本当に心から求めているということです。
いつもそのことばかりを考えてしまうのは、それだけ好きだということです。
恋愛と同じです。
いつもその人のことばかり考えているということは、それだけその人のことが好きだということです。
人を好きになるために、わざわざ努力をしますか。
わざわざ意識をしますか。
無意識のうちにその人のことばかり考えてしまい、その人のことしか視界に入らなくなります。
人を好きになるために「好き」を無理やり意識するのは、本心ではありません。
頭からはなれないことが、本当の「好き」です。
自分の好きなこと、すなわち才能を磨くときに、誰かと競争してはいけません。
競争をすると、自分のペースが崩れてしまい、自分ではなくなります。
どのくらいの時間にどのくらいの集中でやればいいのかは、本当は自分がいちばんよく知っています。
しかし、他人との競争を意識し始めてしまうと「負けてなるものか!」と余計なアクセルを踏み込んでしまうことになるのです。
車の運転と同じように、隣の車と「負けてなるものか!」とスピード争いをしていると、交通事故につながります。
余計な闘争心は、常に事故の元凶です。
自制心を失う瞬間です。
私も自分が本を書いているときには、書く量や書いている時間を、ほかの作家と比べることはありません。
というより、しないようになりました。
しないほうが自分らしく書け、集中できることに気づいたからです。
「勝つこと」や「数字」だけに意識が向いてしまい、せっかくの目の前にある文章そのものに集中できなくなってしまったのです。
もはや目的が書く楽しみではなく「ただ勝つことのみ」が目的となり、味気なくなってしまったのです。
なにより疲れます。
競争に意識が向いていると、余計なところで精神力を削ってしまうことになり、精神的なストレスも大きくなってしまうのです。
たしかに競争は、一時的には良い効果をもたらします。
それはあくまで、一時的な効果です。
人生を見据えたライフワークでは、競争は悪魔のささやきになるのです。
受験では「競争」をすると勉強がはかどるといわれています。
私も学生時代は競争しながら勉強をしたことがあります。
勉強ははかどりますが、大きなストレスがかかり、一時的に効果はあっても長期的に燃え尽きそうになります。
受験生は、競争である受験勉強が終われば、みんな逃げるように勉強をしなくなります。
なぜ受験が大変なのかというと、競争であるからです。
なぜ受験が終わればみな勉強をやめてしまうのかというと、競争によって疲れてしまったからです。
才能は楽しむことであって、競走することではありません。
競争は、短期的に効果はあっても、長期的には注意が必要です。
常に自分のペースをいちばんの基準にして、物事を進めていくことです。
勉強に限らず、読書や趣味も仕事も同じです。
自分の理解や成長に合わせたペースでなければ、吸収できることも吸収できなくなるのです。
「ただの能力で終わらせてしまう人」と「才能を開花させることができる人」がいます。
この2人の違いは、見た目ではわかりません。
あること一点に集中している姿は、どちらも同じです。
しかし、決定的に違う点があります。
その人が何を思い、打ち込んでいるかです。
「ただの能力で終わらせてしまう人」は「どうすればもっとうまくなるか」と考えています。
「もっと上手になろう、もっと向上しよう」と上に上り詰めることだけに集中しています。
常に闘争心が燃えていて、目をとがらせています。
ぴりぴりした雰囲気が漂っているため、人も寄りつかなくなります。
それに対して、才能を開花させることができる人は「どうすればもっと楽しくなるか」を考えています。
精神的な充実に重点を置いています。
結果という数字ではなく、精神面の充実に気を向けていますから、楽しくて仕方ありません。
才能を磨くためには、継続が重要です。
どんなに才能も、やめてしまっては意味がありません。
やめてしまえば、才能の芽もつぶれます。
結果や数字ばかり見ていると、やがてストレスに変わります。
楽しめるどころか苦痛になり、ついにはやめたくなってしまうのです。
才能磨きを目指している人のほとんどの人が、ここでつまずきます。
もともと、数字にばかり気をとられていることに、原因があります。
数字が大切で、それにばかり集中するのは悪いことではないように思えます。
しかし、楽しめなければ、長く続けられず、ゼロになることは目に見えています。
才能に関しては、常に続けられるように考え方を変え、打ち込む必要があります。
続けられるポイントは、1つしかありません。
「楽しめること」
これだけです。
結果より走ることを楽しみましょう。
結果ではなく、走ることに充実感を得られれば、大きな才能に成長します。
コンプレックスには、才能になる可能性が隠されています。
「かっこいいところを見せたい」と努力するより「かっこ悪いところを見られたくない」という努力のほうが力強い原動力になります。
人にはそれぞれ固有のコンプレックスがあります。
太っていること、英語が苦手なこと、力が弱いことなど、多種多様です。
人によって悩みも違いますが「なりたくない」という反発の力は、大きな力を生みます。
磁石は、引き寄せる力も強いですが、反発する力も強いのと同じです。
太っている人は「痩せたい」という気持ちが人一倍強く、力が弱い人には「強くなりたい」という気持ちが強い。
空手を習う人には、もともと体が弱かった人が多い傾向があります。
体が丈夫な人は、空手を習おうとは思いません。
もともと体や強さに困ることがないため、欲求が薄いのです。
英会話教室も、英語がすらすら話せる人は通いません。
むしろ英語が苦手で克服したい人ほど、欠かさず熱心に通います。
英語にコンプレックスがあるから、余計に英語を勉強している人が多いのです。
あなたが持っているコンプレックスにも、大きな力を生む原動力になります。
劣等感があればあるほど気にしてしまい、改善したい欲求も大きくなります。
コンプレックスとは、自分の価値を下げる障害物ではありません。
自分を飛躍させるバネになります。
「嫌だ!」
「苦手だ!」
「そうなりたくない!」
負の感情はコンプレックスであり、才能の芽でもあります。
私は自分が好きだと思うことは、難しくても楽しいと感じます。
難しいからこそ、やりがいがあります。
わからないところがあると、嬉しくて仕方ないのです。
昔からパソコンが好きで、中学生のころには「BASIC」というプログラミング言語を使って、ゲームをつくっていました。
もちろん最初はわからないことだらけでした。
しかし、何度もトライアンドエラーを繰り返し、プログラミングの特徴やコツを身につけていきました。
自分の思うように動いてくれるプログラミング言語は、大変興味深いものでした。
たった1本の線を引くプログラムがあるとします。
一度プログラムを書き上げれば、何度でも素早く正確に再現してくれます。
疲れない、早い、正確。
こうした要素に未来の希望を感じ、指示のとおりに動く「プログラミング」というものに強い感動を覚えました。
当時は夢中になっていました。
城のあるじになったかのように、言うことを何でも聞いてくれるプログラミング言語は、まさに最高の道具でした。
よくゲームをつくっていると、どうプログラムを組み立てていけばいいのかわからない部分が出てきます。
そんな難しいところが出てきてもつまらないとは思わず、不思議と楽しいと思ってしまっていました。
「すでに出来上がっている事例があるからには、何か方法があるはずだ」
発見や創造を繰り返していくことが楽しくて仕方ありませんでした。
趣味を深く掘り下げることほど、有意義な時間はありません。
今ではその延長で、IT関係の仕事につき、自分のウェブサイトもつくるようになりました。
また、幼いころから哲学的なことを考えることが好きでしたから、その蓄積を知恵として文章にしています。
コンピューターの能力と執筆能力を同時に発揮できるような生活スタイルをつくることで、楽しみが2倍になっている感覚です。
「難しくても楽しい」、そう思えることが、あなたにもないでしょうか。
それはあなたが心から本当に楽しんでいるという、一種の才能なのです。
本来なら、難しいところが出てくると嫌な気分になりやめたくなってしまうところです。
それでも楽しいと感じてしまうのは、自分の才能を見分ける良いポイントになるのです。
人間の能力には「得意なこと」と「好きなこと」の2つがあります。
似たような印象を受けますが、実態はまったく別物になります。
得意なこととは先天的であり、好きなことは後天的です。
生まれつき得意なことはありますが、好きになるのは環境や出会い、タイミングによって変わってくるものなのです。
もちろん得意なことでも嫌いなことはありますし、好きなことだからとはいえそれが得意なこととは限りません。
基本的に、別々のものと考えましょう。
しかし、才能が開くであろう最も理想的な形は「得意なこと」が「好きなこと」であるという状態です。
「好きな上に得意」「得意で好き」という状態です。
才能を開くために必要なことは、自分の特質をよく知り、得意なことを自分の好きなこととしてプラスさせていくことです。
ごくまれな才能に恵まれるためには、自分が何を得意とし、どんなことに向いているのかという「特質」を知らなければなりません。
そのためには、自分についての研究が必要です。
軽い気持ちでもいいので、子どものころから、いろいろな挑戦をしておくことです。
三日坊主でもいいため、まず自分の特質、特性、個性や性格を知るために、手当たりしだいにまずやってみるのです。
すると、同じ時間で同じ努力をかけているにもかかわらず「伸び」の大小に大きな違いが出てくることに気づきます。
たくさん努力しているのに伸びが小さいことや、少ししか努力していないのに伸びが大きいことがあります。
少しの努力でも大きく伸びていくことがあなたに向いていることであって、才能になる可能性は高いのです。
私の場合も、初めにコンピューターは得意で、親からの教育もあって小学校4年のころからパソコンに慣れ親しんでいました。
好きだから始めたわけでもなく、得意だから始めたわけでもなく、機会があったから手をつけてみたというささいなきっかけです。
しかし、これが意外なことに、やり始めるとはまってしまい短期間に伸びていきました。
なぜなのかはわからず、これこそ人それぞれにある「特質」といわれるものです。
私はもともとコンピューター関係に向いている性格だったようで、やっていくうちにあとからだんだん好きになっていきました。
学校のように宿題が出ることもなく、先生に叱られるということもありません。
のびのび遊びながら勉強できたおかげで、好きになり「得意なこと」と「好きなこと」が一緒になってしまったのです。
生まれつき得意なことというのは、実際に存在します。
運動神経が良かったり、つくるのが得意であったりと、その人が生まれつきすでに持っている特性というのは存在します。
私だって同じです。
私の場合、文章を書くのはどちらかと言えば最初から得意でした。
練習をしたわけでもないのですが、比較的文章を組み立てるのは得意で、なぜうまくいくのかは自分でもよくわかりません。
ちょっと乱暴な言い方をしてしまえば「なんとなくこんな感じかな」という「直感」に任せて文章を流しているような感じです。
小学生のころは、みんなが作文を嫌がっている中、私だけは大喜びしていたものです。
もともと得意だった作文が好きになったのはあとからでした。
自分に向いていることだったので簡単にできるし、上達も早く、先生に褒められるとさらに書くようになりました。
その繰り返しで書くことが「好き」へと変わっていったのです。
自分の能力を最大限に大きくするいちばんのパターンは、まず自分には何が向いているかということです。
自分の特質や特性、性格や得手不得手を早い時期に見つけておくことが重要です。
あとからそれが好きになるように「仕向けていく」ことも大切です。
得意なことを一生懸命「遊び心」で打ち込んでいれば、たいてい大きく伸びていきます。
「得意なこと」が「好きなこと」になったとき、大きな武器になります。
私は子どものころ、いろいろなことをさせてもらいました。
たくさん三日坊主をさせてもらったことを、今でも親に感謝しています。
海外旅行、留学、勉強、畑仕事、習い事など、いろいろとやらせてもらいました。
「できなくてもいいから、やってみる」という経験を、山ほどさせてもらいました。
そのおかげで、自分に向いていることと向いていないことが、わかるようになってきました。
三日坊主の経験は、大人になってから、自分の能力発揮に役立っています。
三日坊主というのは、世間では悪いことだとされています。
しかし、やってみないことには本当に自分が楽しいと感じるか、合っているかどうかはわからないのです。
やる前に本当に続けられるかどうかなんて、子どもであるほど難しい注文です。
まずやってみないことには、子どもでも自分に合っているかどうか、わからないのです。
つまらない根性論を子どもに押し付けている大人を、ときどき見かけます。
「一度始めてしまったからにはやめてはいけない」
「我慢してでも続けなさい」
子どもには何の役にも立っていないのです。
子どもは、すべてわかりません。
何が向いていて何が向いていないのかは、幼いほどわかりません。
三日坊主は、起こるべくして起こることなのです。
先天的である「得意なこと」を見つけ出すためには、できるだけ小さいころにたくさんの失敗をすることです。
早い時期に、自分に合うことと合わないことを見つけ出しておくことです。
三日坊主を大量にこなして、自分の傾向を知る必要があります。
三日坊主のこなした数が多ければ多いほど、自分の適正が見えてきます。
それらが、将来の学部選び、職業の選択、人付き合いなどに、大いに役立つのです。
小さいころであるほど、リスクは小さくて、やり直しができます。
大人になってからの失敗は、お金がかかったり、社会的地位などが犠牲になったりと、大きな傷を負う可能性があります。
しかし、子どもの三日坊主なら、それほど大きなお金もかかりません。
すぐ始められ、失うことも小さくて済みます。
才能を見つけ出すキーポイントは、子どものころの三日坊主にあるのです。
自分で才能チェックができる簡単な方法があります。
「消去法」です。
自分に何が向いて得意としているのか、それをやって実際に自分が楽しいと感じるかどうかは、やってみないとわかりません。
できるだけ早いうちに、三日坊主でかまいませんから、たくさん数をこなしておくことです。
自分に向いているなと思えば○をつけ、向いていないなと思えば×をつけるといった消去法で探し当てるのです。
注意していただきたいのは、一発で◎を当てようと思わないでください。
たくさんの数ある能力からどれに適しているのかは、見つけ出すだけでも大変なことです。
たくさんの×が続き、たまに○、ごくまれに◎となるでしょう。
下のような図で考えると、イメージが湧きやすくなります。
××××××××××××○××××××××
×××××××××××○◎○×××××××
××○◎×××××××××××××××××
××○××××××××××××××××××
×××××××××××××××××××××
自分のできること、できないこと、得意なこと不得意なこと、好きなこと嫌いなことを○×形式で絞りこんでいきます。
するとある一定のところに○が偏っていて、自分の特性を知る手がかりになります。
自分に向いていることが早い時期にわかれば、早くに打ち込めます。
早くに打ち込むことができれば、それだけ打ち込む時間も長くなりますから、才能の芽が出てくる可能性が大きくなるのです。
才能という響きがあるからと言って、世界でいちばんの実力を持っていなければならないと思っていませんか。
他人より優れた能力がないと、才能と呼べないと思い込んでいませんか。
たしかに世の中には、ナンバーワンの能力という意味で才能を発揮している人がいます。
エジソンやアインシュタインをはじめとする有名な発明家や科学者たちは、直感や発想が鋭くて、優秀な頭脳を持った秀才たちです。
しかし、すべてがその限りではありません。
どこにでもいるような平凡な人でも、才能として生かしている人たちがいます。
たとえば、本屋で並んでいる本を思い出しましょう。
夏目漱石、芥川龍之介、宮沢賢治をはじめとする優秀な文豪がいる中で、一般人が書いた本を見かけることがあります。
自分の経験を本にしたり、趣味を生かして本を書いたりしています。
文章そのものは、崇高で研ぎ澄まされているわけではありません。
誰にでも書ける、ごく普通の文章なのです。
しかし、優秀な人たちとは違い、なぜ一般の人たちが本を出版するまでに至ったかというと、いちばんの理由は行動したからです。
どんなに素晴らしい才能があっても、使わなければ意味がありません。
使って、初めて結果が出ます。
にもかかわらず、できる人は努力しなくてもできますから、実際にやらないことが多いのです。
そのため、実際に実力を持っている人より、劣っている人たちがスポットライトを浴びるという現象がよく起こるのです。
私はときどきお客さまからのお便りで「こんな文書を書くなんてすごいですね」と言われてしまうことがあります。
嬉しいのですが、少し違和感があります。
これくらいの文章なら、書ける人はたくさんいるからです。
世の中には、もっと上手に文章を書く人は大勢います。
私より詳しい専門家もいれば、はるかに人を引き付けられるような文章を書ける文学家もいます。
では、何が評価されているのでしょうか。
「何かをつくって公開し、広く活用されたこと」にあるのです。
より多くの人に読まれ、生活の中に生かしていただければ、より評価は高まります。
一流の書き手である必要はありません。
実際のところ、この程度の文章なら、書ける人は大勢います。
しかし、実力のある「書ける人たち」は、簡単に書けてしまうため、やりがいを感じにくく、頭の中で話を終わらせてしまいます。
できることが平凡であり、すごいことだという認識が薄いため、つまらないと感じて、実際の行動に移すという段階までいきません。
そのため実力のない人たちが実際の行動に出て、本当に実力のある人を抜いて、前に出てしまうことがあるのです。
科学の世界でも本当に実力のある人は、当たり前でつまらなく、面白くないため、行動せずに頭の中で完結させてしまいます。
そのため、実力のない人があとから抜いてしまい、スポットライトを浴びてしまう状況があります。
本当に評価されるのは、もはや実力ではないのです。
「行動力」です。
自分ができることを公開し、できるかぎり大勢の人に見てもらったり使ってもらったりすることに、本当の意味があります。
それこそが「本当に才能を生かすこと」です。
自分があえて努力をしなくても、結果としてすでに長続きしていることは、それそのものがもはや才能です。
長続きをしているということは、自分が好き好んでいるからこそ続いているという本物の証拠です。
小さいころから長続きしていることは、大人になるにつれ、能力が上がります。
東京大学の合格生に「勉強をつい最近始めました」という人はいません。
中には高校から集中して勉強をした猛者もいますが、ほとんどの人が幼いころから勉強を楽しんでやっています。
それはもはや勉強を勉強と感じていないということであり、むしろ遊んで楽しんでいる感覚なのです。
もっと楽しみを追求するために勉強をし、楽しくなったからもっと勉強をする。
はたまた競争による適度なストレスも良い刺激と感じてしまい、楽しみを追求した結果、頭が良くなったわけなのです。
長く続いていることというのは、楽しくなければ続きません。
嫌いなことを誰が好き好んで続けようと思うでしょうか。
誰でも嫌いなことは、続けるどころか「やめてしまいたい!」と強く願い、実際にそうします。
楽しくて長続きしていれば、何でも才能と呼べるほどになってしまうのです。
私は高校1年のころは体操部でした。
自分と同じ学年に白石君という、すでにインターハイで十分に勝負ができるほどの実力の持ち主がいました。
白石君に「なぜそんなにうまいの」と聞くと、単純な答えが返ってきました。
「小さいころからずっとやっているから」
「ただやり始めた時期が、ほかの人より早いだけ」
白石君は小さいころに体操に出会い、楽しいからずっとやっていて、結果としていつの間にかうまくなったと言うのです。
「楽しくて長く続けていれば、誰でも必ずうまくなるよ。早い時期に体操と出会えたことに感謝している」
楽しい気持ちが原動力に、小さなころから「続けること」ができたため、いつしか才能と呼べるほどの実力へと変貌していたのです。
これらは、今のあなたにも言えることです。
小さいころから始め、いまだに続けられていることは、自分に合っていることであり、実力も身についています。
かっこ悪くても、他人から評価されないことでも、好きで長続きしているということは、才能であるということなのです。
「しなければならない」と考えてしまうところに、才能はありません。
mustで考えてしまうことは、いやいやしないといけないという反発した気持ちが含まれています。
好きだからやっているわけではなく、そうしないと叱られるので、仕方なく体を動かしている感覚です。
気持ちが反発している状態では、続けるどころか、いずれ途中で挫折することになります。
本当に才能を感じることには「したい」という気持ちが発生します。
「どうしてもやりたい!」
「なんとかしてしたい!」
積極的な気持ちがあって、初めて自分の身についてくるのです。
たとえば、学校では教養のために無理やり読書をさせます。
しかし、本人の意思ではないため、読書をしなければならない状態になり、気持ちが付いてきません。
気持ちがないため、読んでもなかなか頭に入らず、身につかない。
学校の勉強の大半が思うように身につかない理由は、無理やりさせていることにあります。
本当に身につく人は読書を「したい」と積極的であり、自分から本屋に行き、自腹で本を買い、読む人です。
学校で読書しなさいと言われる前に、自分から本を買って読んでいます。
自分からの積極的な気持ちがないと、頭の中には入ってこないのです。
人間はもともと弱い存在です。
弱いために見栄を張って強く見せたり、自分の存在に価値を付加させたいために肩書を求めたりします。
評価されるために体裁を気にします。
このように人間は、弱いからこそつまらないことを求めてしまう性質があります。
あなたも考えたことはありませんか。
やりたいことを見つけるときに、かっこよさを基準に決めてしまうことを。
服を選ぶときには、自分が好きな服より、他人から見てかっこいいかどうかを基準に決める。
試着するときには自分が気に入り決めればいいものを「似合う?」と言って他人の評価を軸に決めたがる。
高校を選ぶときも、授業の内容ではなく、高校の名前や制服のかわいさかっこよさで決めてしまう。
本来なら、自分の人生なのですから自分が感じる「楽しさ」や「好み」に引かれるのが、いちばん正しい選び方です。
他人に「どう思う?」と尋ねる姿勢は、自分に自信のない表れです。
自信がないから「すごいね」という一言を言われたいために、無駄な努力と膨大な時間を費やします。
自分の好みより、他人にどう見られるかによってやりたいことを決めてしまう生き方は、完全に人生を脱線させているのです。
たとえば仕事です。
お金が稼げるから弁護士になりたい、かっこいいから医者になりたい、モテるからホストになりたいと考える人がいます。
他人から見られることが基準になっているため、自分の気持ちに正直でない道は、やる気がついてこず、途中で挫折してしまいます。
「何のためにやっているのだろう。自分は本当にこれを望んでいるのか」
壁にぶつかるたびに、こうした自問自答を繰り返すようになり、積極的な行動ができなくなってしまうのです。
見栄、体裁、世間体、肩書に振り回された行動は、自分のためになっていない行動となるのです。
本当に心から望んでいることは、壁にぶち当たったときこそ、自分で考え自分の力でなんとかしようとします。
好きなことや楽しいことは、自然と周りの目など気にならず集中でき、身につきやすくなります。
本当に大切なことを選ぶ基準は「楽しいかどうか」「好きかどうか」で決めることが重要なのです。
才能もひもをほどいて元をたどれば「楽しい」や「好き」がスタート地点になっています。
得意なことが好きになる場合もあれば、好きなことが得意なことになるケースもあります。
どちらにせよ「好き」や「楽しい」が必ず付いていないと、能力が伸び悩んでしまいます。
見栄や肩書、体裁から始まった才能は、1つもありません。
常に自分の100%を表現できることが、才能へと変わっていくということなのです。
あなたは自分が持っている才能を、自分では「当たり前のこと」と思っています。
できて当たり前、やって当たり前、これくらい当たり前。
そのため自分が持っている能力を素通りし、大したことではないと思っています。
しかし、ほかの人から見れば「おや」と思われ、あなたの特異な部分に気づいてくれます。
自分で自分のことを観察することも大切ですが、視点を変えてみましょう。
あなたが他人から、よく褒められることは何ですか。
自分では当たり前のことでもかまいません。
いろいろな人から「共通して言われた褒められた部分」が、あなたには驚くべき才能の種である可能性は大きいのです。
自分では当然のことと思っていますから、他人から「すごいね」と言われても「そうかなあ?」「これくらい普通だよ」と感じます。
しかし、それはできる人だからこそ思うことであって、できない人には輝いて見えるのです。
私は幸せに関するジャンルにおいて、昔から考える癖がありました。
習慣と言ってもいいでしょう。
時間さえあれば「幸せとは何だろうか。何のために生きているのだろうか」とよく考えていました。
小学生の低学年のころから、意識し始めたのを覚えています。
しかし当時は、誰もがそう考えているものだと思っていました。
世の中がわかるにつれて、幸せや生きる目的など、自分なりに答えが出せるようになりました。
考える習慣が日常的でしたから、いろいろなジャンルについて、散歩をしながら物思いにふけっていたものです。
こうしたことは、誰でも同じようにしているものだと思っていました。
しかし、これが22歳ごろに出会った美容師の方に話してみると、驚かれたことがきっかけでだんだん変わります。
40代半ばの女性の美容師なのですが、2週間に1回は髪を切ってもらっていたので、だんだん仲良くなっていきました。
かなり個人的な話もするようになりました。
日頃から考えていることを話していくうちに「そんなことまで考えているの!」と言われてしまいました。
私は「これくらいは誰でも考えていることだと思いますよ」と答えていました。
「大人でも考えている人は少ない」
「大人のほうが人生諦めてしまい、考えるどころか愚痴や病気の話ばかりをしている」
そう言われ、私もそのときは深く心に留めていませんでした。
ところが、友人に「考えていること」を話すと「考えたこともない」という反応をされる結果でした。
このころから、周りは考えていないことなんだと気づきました。
中には、気にもかけていない人もいるようです。
これは私には驚きでした。
てっきりほかの人も考えていることだと思っていました。
何も考えていなかったことを知ると「じゃあ今まで何を考えて生きてきたのか」と、逆にこちらが驚いてしまいました。
また友人の中には「なるほどね」と褒めてくれる人もいてくれて、自分の考えは普通じゃないと気づき始めたのです。
自分では当たり前で、口に出すのが恥ずかしいくらいのことのほうが、ほかの人には驚かれることだったりします。
自分の生活をちょっと振り返ってみましょう。
当たり前だと思っていることは、意外に当たり前ではなかったりします。
当然と思うことでも、ほかの人からすれば驚きであったりします。
自分の生活を振り返り、ほかの人から共通して褒められたり驚かれたりすることを思い出してみましょう。
意外にそれが、あなたの特異な能力であったりするのです。
長く生きれば生きるほど、認めたくはないが、認めざるを得ない事実に気づきます。
それが何かというと「厳しい人生のほうが、実は良い人生につながっていく」ということです。
毎日が平凡で波のない生活より、会社の上司に叱られたり、親に怒鳴られたりしたほうが、自分のためになります。
つらい人生のほうが、実は良い人生へとつながっていくという、認めたくない事実に気づいてしまいます。
年を取るごとに、気づいてしまうことです。
私の親は、昔からしつけには厳しい人でした。
食事中は、大きな音を立てて食べないこと。
お礼や感謝は、必ず言うこと。
ガムを噛むときには、口を開けて噛まないこと。
こうしたことをはじめ、毎日怒鳴られたり叱られたりしたものです。
幸か不幸か、会社では性格の悪い上司によく当たることが多かったものです。
よく指導されたり、叱られたりしました。
叱られたり怒鳴られたりすると、落ち込んだり、時には憎しみが湧き出てきたりします。
そのときは恨んでも、時間がたってあとから考え直すと「お説教」は、実に良い「教え」になっていたことに気づくのです。
叱られるほどですから、私の悪いところをわざわざ時間をかけて指摘して、大きな声で怒鳴ります。
私にとっても忘れられないほど脳裏に焼き付きます。
「大切なことをしっかり教えてもらえた」
言葉の意味がわかると「叱られることも悪いことではない」と思えてきます。
叱られることが多いほど大切なことに気づかせてもらえ、私の生活でも役立つ知恵になります。
こうしたことは、長く人生を歩めば歩むほど、どの場所でも誰からでも共通して起こります。
過去を振り返れば叱られた経験のほうがたくさん思い出せます。
叱られるという衝撃が強く脳裏に焼き付き、忘れられないほどの刺激になっているからです。
しかし、一方で、そんな叱られた経験ほど大切な「教え」になっていることを認めざるを得ません。
昔は恨んだ人も、今では感謝をしてしまうという180度がらりと変わった評価に、自分でも驚きを隠せません。
まとめて言えば「厳しい人生のほうが、実は良い人生につながっていく」と言えるのです。
厳しい困難をたくさん経験した人のほうが、たくさんの知恵を身につけているため、後に良い人生を送ることができているのです。
私は20歳のときに彼女に振られる、という大変苦々しい思い出があります。
しかし、そのときの経験は、後に付き合った女性との関係に役立ちました。
過去の失敗が、貴重な教えになっているのです。
不思議な話ですが、涙を流したようなつらい経験ほど、自分を支えてくれているのです。
なぜあのときそうなったのかと考えると、自分の悪いところが見えてきます。
「同じ失敗は二度と繰り返したくない」
心から、そう思うのです。
厳しくつらい経験が、あなたを変えてくれます。
歯を食いしばってしまうくらいつらく厳しい経験があるほうが、そのときは大変なことでも、あとから必ず役立ってくれるのです。
才能は「毎日やりたいと思うこと」にあります。
英会話に週1回だけ通う人を、ときどき見かけます。
英会話に通うのは素晴らしいことです。
しかし、本当に英語が好きで習いたい気持ちが熱く情熱的なら、必ず毎日通いたいと思います。
本当に日本が好きな外国人は、一度だけの旅行では物足りないと感じます。
旅行では満足できないので、いっそのこと、日本に住んでしまうという話と同じです。
心から本当に望んでいることは、毎日触れていたい欲求が湧き出てくるのです。
その人らしさを表しているとも言えます。
英語に毎日触れていたいと願う人は、英語に関係した職業に就く可能性が大変高くなるものです。
日本が大好きで、在日している外国人は、外国語を日本で教えたりする職業についている人が多くいます。
私は小学4年生のときに初めてパソコンに触れました。
BASICというプログラミング言語でプログラムをつくり始めたことがきっかけで、毎日パソコンに触れるようになりました。
単純に面白くて夢中になったのです。
自分の手で何かをつくるという創作が好きだったからです。
「毎日でも触れていたい」と思うことは、その人の本質であり、将来の職業や、才能へとつながる能力が垣間見えます。
あなたの「毎日やりたいと思うこと」を思い浮かべてみましょう。
毎日触れていないと寂しくなってしまい落ち着かないということは、強く引き寄せる力が働いているということなのです。
「いつかしたい」と願っていることは、つまりそれほど捨てきれないという強い思いの表れです。
「できなければ、いいや」と諦めるのとは対照的に「できなくても、いつかしたい」と思うことは強い気持ちがあるのです。
人間の心理というのは、こうしたささいなところから垣間見えます。
いつかしたいと長期間思っていることほど心から願っていることですから、幸せをもたらすことだと考えてもかまいません。
それをやれば自分が幸せになれるから、いつも考えており、捨てきれず、忘れられないのです。
このように先延ばしに考えていることをもう一度思い出し、実現に乗り出してみましょう。
一度しかない人生を満喫できるかどうかは、諦めたことをやり直せるかどうかなのです。
好きなことは、すぐ終わってしまうとあっけないものです。
できればもっと長い時間、触れ続けていたいと思います。
才能の芽になる好きなことを見分けるためには、それに時間をかけたくなるかどうかを基準に判断すればいいのです。
すぐ終わってしまえばいいと思うことは、本当の好きではありません。
心から願うことには、もっとやりたいもっと長く触れていたいと思うものです。
恋愛でも同じことが言えます。
好きな人がいるときには、できるかぎり長い時間、一緒にいたいと思う気持ちと同じです。
「たまにだったら会ってもいいよ。でも毎日会うのは嫌だな」
こういうことを言う人は、本当に相手のことを好きになっていないということです。
体が目的で付き合っているだけであって、本当の愛とは程遠いものです。
本当に好きな人には、必ず毎日会いたくなります。
毎日会いたくなったり、電話をしたくなったり、毎日触れていたいと思うことこそ本当に好きになっている証拠なのです。
毎日触れたいことが人なら恋愛ですが、毎日しておきたいことなら才能です。
あなたが、日常少しでも長くやっていたいと思うことは何でしょうか。
毎日しておかないと気が病んでしまうことは、それだけ好きだということです。
本当に好きなことには、必ず時間をかけたくなるものなのです。
私は昔から考えることが好きで、よく暇さえあればいろいろと考えていました。
何を考えていたのかというと、それこそ本当にいろいろなことについてです。
人生について、自分の将来について、自分について、勉強について、幸せについて……。
数を挙げれば切りがありません。
友人からは「よくぼうっとしているね」と言われるのですが、ほとんどの場合何か別のことを考えているときです。
私は、何もしないとつらいと感じてしまう性格です。
ぼうっとしているときこそ、物思いにふけるときです。
では、なぜそんなことをしていたのかというと、不思議なことにこれが自分でもよくわからないのです。
ただわかることは、考えているときはとてもほっとした落ち着いた気分でいられるということです。
わからないことが少しでもわかるようになるために、自然と集中していたとも言えるでしょう。
昔から考えるのは好きでしたが、正直その理由はなぜかというと「ただそれが好きだったから」くらいしか答えようがないのです。
友人にこのことを話すと「それは才能だよ」と言ってくれます。
案外、友人に言われると「そういえばそうとも言えるな」と思えるのです。
自分の隠れた才能は自分でもよくわからないところに存在します。
それをやっていると不思議と、ほっとした気分になるところに存在します。
それだけ自分では当たり前のことだし、気づけばそうしているのは、もはや習慣であり性質であり特質ということなのです。
自分の本質は、当たり前だと思うところに存在し、理由もわからずほっとできるところに存在しているのです。
「must」と考えていることには、本当の才能は存在しないと思ってください。
「must」と考えることには「本当にやりたい」という気持ちはなく、むしろ半強制的な雰囲気があります。
ある行動に対して、自然と「must」と考えてしまうようなら、嫌な心持ちが混ざっているということです。
「must」という表現を、別に言い換えると「仕方なくやる」「とりあえずやる」と言えます。
自分がやりたいわけではないが、頼まれていることなので「仕方なくやる」。
命令されていることだから「とりあえずやる」。
こうした消極的な意識がうっすら見えます。
あなたの生活を振り返ってみると、たくさんの「must」があることに気づきます。
学校に行かなければならない、仕事をしなければならない、勉強をしなければならない、などです。
自分の「must」と付く行動を見つけると、いかに自分の本心から行動できていないかがわかってくるのです。
私は以前「読書はするべきだ」と考えていました。
読書をしなければならないという半強制的な「読むべきだ」という意識になっていた。
「本を読んでいないのは悪いこと。本を読むのは良いこと」というふうに、読むことが目的となっていました。
そのため伸び伸びと読書ができず、ただたくさんの本の量をこなすことそのものが目的となっていた。
得た知識より読んだ量を常に意識してしまい、本当に心から楽しんでいる状態とは言えませんでした。
このおかしな事実に気づき、私はあるときから本をどのくらい読むのかという「量」は、意識しないことにしました。
たくさん読むことがいけないことだと言っているのではありません。
「must」と意識してしまい、本来楽しむべき読書が強制的になってしまうことがいけないと言っているのです。
それからというもの、量は減りましたが、本によって得られる内容に気を集中させることができるようになりました。
「must」と考えると、無理やり自分にむちを打ち、前に出ることができます。
そうは言っても自分から積極的に前に出る純粋な気持ちではないため、身につく度合いには大きな差が出るのです。
この2つが当てはまることは何でしょうか。
ちょっと振り返ってみましょう。
どうしてもやりたくて、邪魔をされてもなおやり続けてしまうこと。
またお金を出してでも、なんとかしてやりたいと求めてしまうこと。
もしそれほどまでにやりたいと願うことがあるなら、あなたの才能です。
才能は、能力の強弱を言っているのではありません。
どれだけあなたに「好き」という思いが強いのかで決まるのです。
本当に強ければ、それをしているときには最高にハッピーになれます。
できてもできなくても、嬉しい気分になれるなら最高です。
こうしたことが誰にでもあるかというと、そうではありません。
何か1つに打ち込むことができた環境や、それに出会えた幸運も関係します。
運と幸運は、同じ意味に捉えている人がいるのですが、この2つは別物です。
運を言い換えれば、ただの偶然です。
積極的でもなく、自発的でもなく、単純に偶然として起こった運の良い出来事ということです。
幸運は、自発的に行動をした結果で得られた運です。
たとえば、宝くじを1回引くのと、100回引くのとでは当たる確率が全然違います。
1回だけ引くというのは、簡単ですぐできます。
一方、100回引くには、努力が必要です。
当たることを目標とし、努力を続ければ、当たる確率は飛躍的にアップします。
それだけ努力をしてきた結果、当たった宝くじは偶然の「運」ではなく、努力が実った「幸運」ということなのです。
三日坊主も同じ話です。
いろいろな経験をしておくほうが、自分が合っていることに気づきやすくなります。
たくさんの行動をしてみないことには、わからないのです。
邪魔をされてでもやりたい、お金を出してでもやりたい。
それほどまでに強い好きという感情が湧き出ることが見つかったのは、見つける努力をした結果であるし、幸運ということです。
誰でもそれだけ大きな「好き」が見つけられているわけではなく、むしろ見つけていない人のほうが多いのです。
もしあなたに、そんな大きな「好き」が見つかっていれば、才能を花開かせる準備はできています。
そのくらい心の底から好んでいるということがあるだけで、れっきとした才能になるのです。
「自分が生まれてきた理由、意味、役目」
これを見つけることができた人には、必ずほかと抜きんでた才能と呼ばれる力を付けることができます。
生きていることに、大きな意味を感じています。
それを果たすために生きていることがわかれば、おのずから前に出る力が湧き出てきます。
「天から使わされた命」を「使命」と言います。
使命感を意識して行動していると、大事な場面で踏ん張れます。
自分が今、なぜそうしているかという理由がはっきりわかっている人には、底力が湧いて出てきます。
以前出会った上司の1人に、変わった口癖のある、リーダーがいました。
「使命があるから」という口癖です。
大事な場面では、独り言のように小さな声で言います。
小さな声だったため、周りにいる私たちにはその言葉が不思議な意味に感じ取れました。
彼は、仕事がよくできる人です。
朝早くから夜遅くまでよく働き、人を統率するリーダーシップを発揮している人です。
作業をたくさん抱えて仕事が追いつかず、連日の徹夜で、みんなが疲れきっている時期がありました。
そんなとき、彼は「使命があるから」と言って、もう一踏ん張りこなしていました。
今抱えている仕事は、自分がやるべき仕事であり、こなすことが人生を全うすることだという使命感を抱いていました。
そのため、常に強く生きることができていたのです。
生きている意味や、自分がここにいる「存在意義」というものをしっかりわかっていると、目の前の仕事に一生懸命になれます。
目の前にこの仕事があるのは「今の自分に必要な課題である」と感じます。
全身全霊を持って取り組めるのです。
生まれてから最も身近に見てきた存在といえば「親」です。
あなたがこの世に存在するということは、親がいるということ。
自分の両親は、生まれてからというものずっと目にしてきた存在ですから、親から受ける影響は大きい。
たとえばあなたが今話している日本語は、まず始めに誰から教わったのでしょうか。
もちろん親からです。
親が話している声を耳で聞いて、口で真似て発音し、だんだん会話ができるようになりました。
別に本を読んだり、辞書を引いたりしたわけでもありません。
むしろまだ本も読めず、辞書の引き方すらわからないときから習得し始めていました。
日本語を簡単に習得しました。
学校では中学のころから英語を何年も学びます。
英語の本を読んだり、単語を覚えたりしますが、あれほど勉強しているにもかかわらず、日常会話すらできないのがほとんどです。
英語を努力して勉強しているのに習得できない一方で、努力を必要としない親の真似だけで日本語をたやすく習得できています。
親からの影響は、学校より大きい。
日本語だけに限りません。
作法・話し方・癖など、最も長く身近で見てきた人であり、手本です。
なぜこんな話をしているのかというと、これが才能にも大きくつながることになるからです。
才能を持ち合わせている人の多くは、親からの影響が大きい。
読書が好きな人は親がいつも本を読んでいたから、その影響で自分も本を読むようになったケースが多い。
親が医者である人は、子どもも医者になるケースが目立ちます。
患者を治療する親の姿を見てきたので、そうした意識が自分にも染み付いた。
私も自分の話し方は、親によく似ていると言われます。
話すより聞くタイプで、物静かな父に似ていると言われます。
父がそうであったから、私も自然と影響を受けました。
意識をしなくても、幼いころからそばにいるので「行動パターン」が、私の頭にも体にも染み付いています。
真似をしているつもりはなくても、自然とそうなります。
自分が影響を受ける能力や才能は、親からの影響が大きく関係しています。
努力をすることなく、いつの間にか受けている親からの影響を逆に利用し、才能発揮に役立てることができないか考えてみましょう。
親から受けている影響を活用しながら能力を伸ばしていくと、スムーズです。
環境にしろ、友人関係にしろ、今のあなたが自然と人生を歩めているということは、その状態に感謝しておくことが大切です。
良いこと悪いことも、すべて含めてです。
生まれつき大きな努力を必要とせず、親や環境、友人、経験などがあなたの中に入ってきたことは、恵まれていることです。
私は今の親、今の実家、そうした「生まれ」や「育ち」もあわせて、ここまで歩んできた人生をまるごと感謝しています。
たしかにつらいと思う出来事もたくさんありました。
親に叱られたり、受験に失敗したり、失恋したりと、思い出したくもないこともたくさんあります。
しかし、否定したところで何がどうなるわけでもなく、つらくなるのは自分なのです。
否定的に考えるほどいちばんの被害者になるのは自分です。
何かを恨んだところで「自業自得」というもので、すべて自分に跳ね返ってくるのです。
考えて気分が悪くなるのは、自分が吐いた唾が自分に返ってきているためです。
誰かを恨んだりすることは、自分を恨んでしまうことなのです。
私はそうした出来事もまるごとすべて「自分の恵まれた人生」だと考えています。
「なるようにしてなった」という表現のほうが近いでしょう。
以前は、反発的なことも考えていましたが、今では意識を変えて肯定的に受け止めるようになりました。
私が今の親を選んだわけではありません。
生まれてきたとき、自然と決まっていました。
同時に実家の環境や家族を中心とした親戚やいとこの関係など、私は一切の努力をすることなく、すでに決まっていたわけです。
努力を必要とせずに手に入れられていることは、すべて恵まれた事実です。
楽しいことや面白いことだけではありません。
嫌な経験も「努力を必要とせず経験できた出来事」であり、恵まれているということです。
自分の身に降りかかることは、不幸ではなく、自分だからこそ経験できる特別な出来事だと思えば「すべてを肯定」できます。
自分の人生に何か反発心を抱いて歯向かうのではなく、すべて流れに沿って受け入れていくことです。
世の中には、あなたの努力など関係なしに、生まれつきすでに決められていることがあります。
その1つがあなたの「環境」です。
あなたの環境とは、大きく分けて2つあります。
自分の「外の環境(親、親戚、土地柄)」と「内の環境(顔、身体状態、先天的能力)」は、生まれつきすでに決められています。
今のあなたの親はあなたが選んだ人でしょうか。
また今のあなたの親戚は、あなたが選んだ人でしょうか。
あなたの顔も体の状態も能力も、あなたが選んでそうなったわけではないはずです。
生まれつき、そうなっていたということです。
自分の努力とは関係なしに、すでに決められていることは、全部受け入れてしまうことが大切です。
外の環境である親や親戚も、内の環境である顔も体も両方です。
決められていることは、変えようがないからです。
ときどき「私は自分の顔が嫌い。~みたいにきれいになりたい」と言い、自分の容姿を嫌っている女性を見かけます。
自分の顔形が好きではなく、テレビに出ている華やかなタレントのような顔立ちならいいのになと思っている人です。
しかし、いくらお化粧をしたり、服装を変えたりしたところで、自分が自分であることには変わりはありません。
ほかの誰かになることは絶対できないのです。
あなたは世の中に1人しか存在せず、またとして同じ人は1人も存在しません。
能力も同じです。
自分に初めから備わっている好みや能力は、他人がどう言おうがすべて受け入れることです。
私は小さなころから、ものを書くということが得意でした。
作文を書いたり漢字を書いたりなど「書く」という行為は大きな練習をすることなく得意でした。
私には、なぜなのかわかりません。
ただ、そういうふうな能力が生まれつき備わっていただけです。
学生のころから、よく物を書いては楽しんでいました。
しかし、ちょうど思春期に当たる時期だけに華やかさを求めたがります。
自分が行っていることはとても地味で目立たず「これができて、だからなんなんだ」と思い悩んだこともありました。
しかし、初めからある能力は、生かしておかないともったいないというものです。
生まれつき持っている要素は、外の環境と内の環境も、生かしきるようにしましょう。
才能という言葉は、自分にあらかじめ与えられている環境をすべて生かしているときに発揮されます。
私は今の父がいるからこそ機械系に強くなりました。
今の母がいるからこそ、お金の大切さを知りました。
今の家があるからこそ、自然の大切さを知りました。
親戚にいろいろな人がいますが、そうした人たちからも「~だからこそ」と言えることがあるのです。
私は生まれつきあらかじめ与えられていることを生かしていることで、今の自分の能力が最大限に発揮されています。
いろいろな条件がオンになっているところだけをかき集めることで、大きなことができるようになるのです。
自分の人生にあることをすべて受け入れてみることです。
初めから手に入れていることは、むしろそれを追い風にして自分を最大限に表現していくと才能も発揮されやすくなるのです。
私は、今自分が行っていることには終わりのないことだと思っています。
自分が結論出したことを、HAPPY LIFESTYLEを通して公開しています。
生きているうちに気づいたことや学んだことを、また公開していくという、単純な繰り返しです。
「終わりはいつですか」と聞かれても「終わりはない」と答えます。
終わりはつくりたくありません。
ただ面白いし好きだから行っていることですから「終わり」ということについては考えていません。
終わりを考えたくないし、ゴールも決めたくはありません。
「ただ楽しいからやる」
「面白いからやる」
これが、私の原動力になっています。
親や友人から、別に褒められなくても、続けています。
HAPPY LIFESTYLEは、陰でこそこそとつくっているサイトです。
私は、考えていることが多すぎたり常軌を逸していることが多かったりするため、軽い気持ちで口にできません。
友人や同僚は、私のことを「静かな人」と思っているようです。
考えは山ほどありますが、口にすると冷たい声が飛んできて、私のやる気の炎を消されてしまいそうで怖いのです。
私は毎日楽しいですが、反面、びくびくしながら生きています。
褒められるためにやっているのではなく、今こうしていることが楽しく、邪魔をされたくない気持ちもそれだけ大きいのです。
いつも、こそこそとサイトをつくっています。
「誰かに見てもらいたい」気持ちと「見つからずに続けたい」2つの複雑な気持ちに挟まれ、今日も「楽しいから」書いています。
ある日、これは私の特異な性質であるということに気づきました。
自分が今生きていることを楽しめ、人の役に立てば、それでいいと思っています。