「頑張って勉強しなさい」
学生時代、先生から、何度も言われてきた言葉です。
学校では、テストの点が良い人は評価されます。
「我慢はいいことだ」
こうしたことを学校では何度も言われてきました。
戦争を経験した世代は、食べるものがなかった時代を経験しているだけに「我慢=美徳」という考えに強くこだわっています。
学校では、お金の話を避けたがります。
お金の話をすると「子どもがお金の話をしちゃいけません」と、叱られます。
どうもお金にはいやらしく、泥臭いイメージを持っている先生たちが多いようです。
「好きなことをやりなさい」
これは私が幼いころからずっと言われ続けてきている親からの言葉です。
学校では「勉強、勉強」としか言いませんが、一方で私の親は「好きなことをしなさい」と言っていました。
学校では「友人はたくさんつくりなさい」と教えてくれます。
幼かったころの私は「友人が多いほど良い」と思っていたものです。
19歳くらいまでは、とにかく友人をたくさんつくろうと必死になっていたものです。
私は高校時代、体操部でした。
入部したてのころは、もちろん何も大きな技はできません。
最初は簡単な柔軟体操から始まり、少しずつ難しい技に挑戦していくという教え方でした。
私が中学生のころ、高市君という失敗にくじけない友人がいました。
体育の時間にあった、サッカーの試合でのことです。
大事な球を高市君が受け、仲間へのパスを、うっかり敵へ回してしまいました。
学校では、先生だけが先生です。
教える人といえば、先生。
学ぶ人といえば、生徒。
学校では、成績優秀の人が主役になります。
学級委員長といえば、決まって成績のいい人が選ばれます。
しかし、カラオケでは、音痴の人が主役になります。
学校では、難しい顔をしていると一生懸命に勉強していると見てくれます。
険しい表情をして、額に汗を流して勉強していると「偉いね」と言われます。
しかし、これは、本当に良い勉強法ではありません。
「お金持ち」という言葉があります。
その名のとおり、たくさんのお金を持っている人という意味です。
お金をたくさん持っている人が偉いと考える人は、まだ子どもです。
私はHAPPY LIFESTYLEで文章を書いているうちに、簡単なことほどレベルが高く難しいことに気づくようになりました。
簡単なことほど難しいとは、ちょっとおかしな表現です。
しかし、難しくすることのほうが実は簡単なのです。
学校では「国語」「算数」「理科」「社会」という科目はあっても「恋愛」という科目はありません。
恋愛は、人間なら誰しも経験する大切なことであるにもかかわらず、学校では積極的にそのノウハウを教えようとしません。
男性が女性に話しかける上手な方法や、女性が良い男性を見分けるコツなどは、誰もが必要としている知識です。
学校では、カンニングは教えてもらえません。
テストでカンニングをしようものなら、先生に叱られるだけでなく、0点にされます。
カンニングのノウハウ、技術、テクニックなど、学校ではまったく教えてくれないのです。
学校では、無駄なことを嫌います。
勉強もできるだけ効率よく進めようとします。
無駄な知識も、黒板に書くことはありません。
私が高校1年生のころの話です。
当時、私は学級委員長を務めていました。
クラスには、何人か「ヤンキー」と呼ばれる人がいて、手を焼いたものです。
学校は、勉強を教えてくれます。
知識をたくさん叩き込まれるところです。
しかし「勉強」は教えてくれますが「勉強法」は教えてくれません。
自分は悪くないのに、謝らなければならないことも、学校では教えてくれないことの1つです。
学校では、必ず悪いことをした人が謝ることになります。
当然といえば、当然です。
学校では「親に頼ってはいけない」と教えられます。
優しい親思いの子どもに育てるために、建前上は、そう教えます。
しかし、小学生から大学生くらいまでは、親の援助に頼らないといけないのです。
勉強とは本来、やらされることではなく、自分からしていくものです。
学校では「勉強をしなさい」と耳にタコができるほど言われます。
「しなさい」と何度も言われることが影響して「勉強とは、やらされるもの」と思ってしまうのです。
学生時代は「止まり方より、走り方」を意識することです。
学校では、走り方より、まず止まり方を勉強させます。
いえ、止まり方ばかりを勉強させるといっても過言ではありません。
学校の勉強では「0 + 3 - 3 = 0」となります。
3を足して、3を引けば、0(ゼロ)になります。
「3歩進んだ、3歩下がった、結局元の位置に戻った」ということです。
学校では、私たちの体が神様からの借りものであることを教えてくれません。
自分の体は、自分のものだと思い込んでいます。
しかし、実際、自分で自分を作った人など、この世には1人も存在しないのです。
学校では「けんかはしてはいけない」と教えられます。
「けんかをしなさい」と教わることはありませんから、けんかを知らないし、弱い子どもが育ちます。
社会に出ると、けんかをしなければならないことばかりです。
出る杭を育てる先生は、なかなかいません。
一人ひとりが個性的でも、個人の成長を尊重して先生はそっと見守ってくれていると、生徒も個性を伸ばせます。
しかし、みんなと同じような行動を取ることを強要させるのです。
矛盾という言葉があります。
矛盾とは、つじつまのあわないことを言います。
学校では、矛盾した考えを嫌います。
三日坊主は、できるだけやめるように学校では教わります。
すぐ諦めては根性が身につかず、情けないことだと思われます。
しかし、本来、三日坊主は必要です。
金銭感覚は、人間が生きていくために必要になる感覚です。
金銭感覚がないと、お金を意味もなくたくさん使ってしまうことになり、すぐ貧乏になります。
食べるものに困り、着るものに困り、生活に困ります。
土壇場を経験している数によって、いざというときに強くなります。
急に起こる出来事に強くなり、冷静さを失わず、対処できるようになります。
もちろん計画的な出来事では、焦りは経験できません。
学校では、夢について教えてくれますが、追いかけるための具体的な方法までは教えてくれません。
「将来は有名人になり、モテモテになる」
「歌手になり、ミリオンヒットを出す」
「頑張って勉強しなさい」
学生時代、先生から、何度も言われてきた言葉です。
学校では、テストの点が良い人は評価されます。
点数がよければ良いほど「いい子だね。すごいね」と言われていたものです。
それを聞いていた私も「勉強すれば、幸せになれるんだ」といつしか思い込んでいた。
ところが、23歳になり、社会に出てから私は驚きます。
学校で「頭がよければそれでいい」という法則が、社会では通用しません。
低学歴の人が、高学歴の人に仕事を教えているということがあります。
また仕事はできなくても、みんなに愛されている社員もいます。
頭のいい人ほど、仕事を任され、残業することになり、家族と過ごす時間も友人と会う時間もなく、顔が青ざめている人がいます。
一方、仕事ができない代わりに明るい個性で幸せそうにしている人もいます。
「あれ、頭のいい人のほうが、幸せになれるんじゃなかったっけ」
私は、ふと疑問を抱きます。
学校では学校のルールがあり、社会には社会にルールが別にあることを、そのとき初めて知ったのでした。
社会では、次のような人たちが評価されています。
案外、頭の善しあしとは関係ないものです。
上司と呼ばれる人には、頭の悪い人がたくさんいます。
では、何が評価されるのかというと、人間関係が上手であったり、仕事のやり方や、要領が良かったりするところです。
必ずしも、知能指数が高い人というわけではありません。
かわいがられる人は、上手に世渡りができますが、頭がいい人とは限りません。
しかし、かわいがられるたびに周りから教えてもらえるため、そのうち仕事ができるようになるのです。
かわいがられるがために人間関係の潤滑油になり、人から慕われます。
学校は、まったく勉強主義の世界です。
その反面、社会は人間関係重視の世界です。
こうしたことを、私は学生時代に、先生にまったく教えられることはありませんでした。
「勉強しなさい。我慢しなさい。頑張りなさい」
「もっといい点を取りなさい。いい大学に入りなさい」
学生時代にこうしたことを何度も言われてきたため、そう信じ込んでいました。
今回は、こうした「学校では教えてくれない大切なこと」を紹介します。
今ここであげた「頭がよければ、幸せになれるわけではない」は、ほんの一例です。
日々のニュースを見ていれば、高学歴の人やお金持ちの人が自殺した話はよく聞きます。
おかしいと思いませんか。
私は、社会に出てから始めの数年間は、本当に苦労しました。
何に苦労をしたのかというと、学校とはまったく別の世界だからです。
小学校から学校のルールに慣れていた学生が、突然社会に出ると、たいていはアレルギーを起こします。
「なぜこんな大切なことを、学校では教えてくれなかったのだろう」
そう思ったことを、ここで紹介します。
学校では教えてくれない大切なことが、本当に大切なことだったのです。
「我慢はいいことだ」
こうしたことを学校では何度も言われてきました。
戦争を経験した世代は、食べるものがなかった時代を経験しているだけに「我慢=美徳」という考えに強くこだわっています。
嫌いな勉強も「我慢してやりなさい」と言われていたものです。
「気が進まないけど、仕方ないからやろう」と思い、やむなく勉強をしていたものです。
学校では「勉強しなさい」と言われ、家に帰ってきてからも母から「勉強しなさい」と言われます。
私は中学校のころ、野球部に所属していました。
野球部では、喉が渇いても、水を飲んではいけないというルールがありました。
練習中に水を飲むことは、甘えている姿に映ったのでしょう。
休憩時間を除いて、水を飲むことは許されませんでした。
我慢をしろと言われ、そのとおり我慢をしていたものです。
喉が渇いて頭はぼうっとするし、集中もできません。
のちに、喉が渇いても水を飲まずに我慢していると、脱水症状を起こすという話を耳にして、私はがくぜんとしたものです。
危険なことをしていたと思うと、我慢するのではなかったと後悔します。
当時の私は、我慢をしながら生活していたものです。
「頑張って勉強します」というと「偉いね」と褒められます。
「つらいけど我慢します」というと「すごいね」と褒められます。
褒められるから、いいことなのだと勘違いしそうです。
しかし、実際は、偉くもすごくもなんともないのです。
自分で、自分を傷つけているだけです。
今思えば、我慢が伴うことは、自分にとってどれも毒であったことに気づきます。
我慢ばかりをしていたため、当時の私は「勉強=嫌なこと」と感じるようになっていました。
頑張ることは、必ずしもすごいことではないのです。
「でもそうは言っても、小学校のころは集中して勉強をさせないといけない」
そう言いたい人もいることでしょう。
たしかに小学校や中学校で習うことは、どれも基本的なことばかりであり、欠かせない大切な勉強です。
勉強をすることがいけないと言っているのではありません。
我慢をしながらさせる方法に、問題があるということです。
本当に身につく勉強とは、楽しくできる勉強です。
本来勉強は、楽しいものです。
楽しく学べることです。
我慢をしながら機械的に、無味乾燥に勉強をさせると、一時的に身についても、本当に身についたとは言えません。
だから試験が終われば、あっという間に忘れます。
「勉強の楽しさを教える」という教育は、学校にはありません。
突然「これを覚えなさい。この漢字を読めるようになりなさい。この問題が解けるようになりなさい」と教科書を渡されます。
いくら大切な内容でも、こんな冷たい教え方では、身につきません。
「勉強の楽しさを教えるという教育」が、学校では不足しているのです。
今、勉強が楽しくてなりません。
誰に言われるまでもなく、自分から本を買って勉強しています。
勉強の楽しさを知り、勉強したくてたまらなくなったのです。
高校1年のころ、部活動の帰りに立ち寄った本屋で、ふと手にした本がきっかけになり、勉強の楽しさに気づきました。
その本は「勉強を教える本」ではなく「勉強の楽しさを教えてくれる本」でした。
それからというもの、勉強に夢中です。
むさぼるように本を読み、それから本当の勉強をするようになったのです。
学校では、お金の話を避けたがります。
お金の話をすると「子どもがお金の話をしちゃいけません」と、叱られます。
どうもお金にはいやらしく、泥臭いイメージを持っている先生たちが多いようです。
お正月にもらうお年玉も「お母さんが預かっておきます」と取り上げられます。
「子どもがこんな大金を持っていちゃいけません」
子どもは、お金を扱う機会が減ってしまいます。
本当は、痛みの小さな子どものころにこそ、お金を持たせてたくさんお金の失敗をさせておかないといけません。
子どものころなら、お金の失敗は、小さくて済みます。
1,000円の失敗は、子どもには大きな失敗に思えますが、大人にはそれほど大きな金額ではありません。
子どものころは、たとえ1,000円でも、大金であるように思えるものです。
小さな金額を大きく感じ、失敗してもやり直しができる若い時期こそお金を持たせ、お金の勉強をさせておかないといけません。
自分でお金を稼ぎ、自分の判断によってお金を使い、痛みも苦しみも楽しみも一緒に勉強する必要があるのです。
残念なことに、学校ではお金の話はしません。
社会の中ではどうお金が流れるのかという表面的な勉強はしても、実際にお金の痛みを味わえる機会は与えてくれません。
自分で勉強するしかないのです。
つい衝動的にお菓子を買いすぎてしまった経験も、1,000円くらいなら、まだ痛みが小さくて済みます。
一度はお金の失敗をして、苦しむ経験をしておいたほうがいいのです。
私が中学生のころ、お年玉で10万円をもらったことがありました。
大金にもかかわらず、両親は「自分で管理しなさい」と言いました。
お金を取り上げることは、一度もありませんでした。
当時は、この意味がわかりませんでした。
「親も子どものお金まで管理するのは面倒なのかな」とくらいにしか、思っていませんでした。
しかし、自分が大人になったとき、あれは親からのお金の教育であったことに気づきます。
自分でお金を持って管理し、使い方を勉強しなさいという親からの教育だったのです。
子どもがお財布をなくしても、親は知らないふりです。
「それは、貴博がいけないのでしょ!」
「落とした本人が悪い」と言って、冷たく接します。
「たしかにそうだな」と私も感じ、子どものころからこうした経験を通して、お金の管理の仕方、扱い方を勉強してきたのでした。
お財布ごと落として、泣きじゃくる経験を一度でもすると、お金に対する考えが変わってきます。
たしかにお財布を落としてしまうことは、痛い経験ですが、何しろ子どものころの話です。
子どものころは、やり直しができるのです。
「好きなことをやりなさい」
これは私が幼いころからずっと言われ続けてきている親からの言葉です。
学校では「勉強、勉強」としか言いませんが、一方で私の親は「好きなことをしなさい」と言っていました。
父も母も、おじいちゃんもおばあちゃんもです。
これだけは、家族全員の意見が一致しています。
単純な言葉で、子どもにも理解しやすい一言です。
あらゆることにおいて「好きなことを選びなさい」と教えてくれます。
子どもの判断を、強く尊重していることが、まだ幼いころから感じたものです。
高校時代、文系か理系か迷っているときも「好きなほうを選びなさい」と言いました。
高校卒業後の留学という進学についての相談のときも「好きなことならやりなさい」と言いました。
仕事についての相談も「好きな仕事を選びなさい」と言ってくれました。
本人が望むことを第一に考えてくれる親であり、今でも感謝しています。
子どものころは、こうした言葉は、単純に「子どもの気持ちを第一に考えて」と思っていました。
しかし、そう単純なことではなく、自分が大人になるにつれて、この言葉はとても深い哲学が含まれた言葉であることに気づきます。
今、私が過去を振り返り、進路の要所で「好きなことを選びなさい」と言ってくれた言葉に強い意味が感じられます。
高校卒業後の留学も、自分が好きな英語を勉強したいから、そうしました。
当然、留学の経験は楽しいものでした。
大好きな英語をたくさん勉強でき、楽しい思い出があります。
また仕事を選ぶ際も、お金を基準にするのではなく、好きなことを基準にして選んだことも正解でした。
自分のモチベーションを第一に考えて行動すると、やる気が出て、仕事が楽しくなるものです。
今、HAPPY LIFESTYLEができ、好きな仕事ができているのは、好きなことを選ぶ習慣があったからです。
親からの言葉は、なんと人生を幸せに導く一言だったのです。
同じように私の親も、若いころにたくさん苦労を積み重ねてきたようです。
いろいろな経験をして、こうすればうまくいくと思った人生の教訓を「好きなことをやりなさい」と一言に圧縮しているのでした。
学校では「友人はたくさんつくりなさい」と教えてくれます。
幼かったころの私は「友人が多いほど良い」と思っていたものです。
19歳くらいまでは、とにかく友人をたくさんつくろうと必死になっていたものです。
しかし、現実はそう甘くありませんでした。
実際は、友人がたくさん増えれば増えるほど、関係が薄くなります。
連絡を取るためには、時間・体力・費用などが必要です。
連絡をして、少し話をするだけでも、時間や電話代が必要です。
当時の私は、友人をつくることが得意でしたが、本当に親しい関係ではありませんでした。
友人をつくればつくるほど「広く浅く」の関係になり、表面だけの関係なのです。
仲良くなっている気がしていただけであって、実は知り合い程度の関係だったのです。
友人をたくさんつくろうとすると、起こるべくして起こることです。
1日は24時間。
お金も時間も限りがあります。
友人と本当に親しくなるためには、自分と合う人を選び、時間とお金を投資しながら、仲を深めていくことが必要です。
知り合いから、友人になります。
友人から、親友へ変わります。
本当の親友には、時間もお金もかかります。
一緒に喜怒哀楽を共にして、お互いをよく知ってこそ、本当の友人です。
私は高校時代、体操部でした。
入部したてのころは、もちろん何も大きな技はできません。
最初は簡単な柔軟体操から始まり、少しずつ難しい技に挑戦していくという教え方でした。
顧問の先生が指導をしてくれ、それに沿って、技を磨くという形です。
当時、体操部の顧問であった吉成先生は、いつも私にこう言っていました。
「水口、初めはコントロールを気にするな。
全力でぶつかっていけ。
危なかったら、先生が補助してやる」。
器械体操では、危険が伴う技が数多く存在します。
初めて挑戦する際に、コントロールを意識しすぎると、逆に危険です。
体のコントロールに気が向いてしまい、肝心の勢いが落ちてしまうからです。
勢いを出せ、次にコントロールを意識することです。
最初からコントロールばかりを意識していると、中途半端な勢いになり、危険な体勢での着地になります。
私はこの指導を受け「これは体操だけでなく、勉強も同じだな」と思いました。
学生時代には、全力でぶつかることが大切です。
勉強にしろ、スポーツにしろ、まずは全力から入ることです。
コントロールは、全力でぶつかった後に気にすることです。
初めからコントロールを気にしてしまっていては、自分の力を本当に出し切ることができません。
最初に出るだけの力を出し、自分はこのくらいの限界までパワーが出ることを知ります。
次に、それをコントロールできるように意識を向けることが大切なのです。
出し方を調整したり、タイミングを考えたりすることは、まず自分の全力を出して、知ってからです。
私が中学生のころ、高市君という失敗にくじけない友人がいました。
体育の時間にあった、サッカーの試合でのことです。
大事な球を高市君が受け、仲間へのパスを、うっかり敵へ回してしまいました。
もちろんミスですから、先生から指導を受けたり、仲間からは冷たい目で見られたりします。
しかし、高市君は、サッカーでミスをして落ち込んでも、次の瞬間には立ち直っている人でした。
先生に叱られて落ち込んでも、授業が終われば、立ち直ります。
普通の人なら、叱られれば引きずってしまい、行動しないようになるでしょう。
「また失敗するかもしれないから、おとなしくしておこう」
こう考えるのが、普通の心理です。
しかし、高市君は、失敗をすればするほど、行動するような人でした。
間違えて叱られると、次は間違えないようにトライします。
ミスをして落ち込んでも、次はミスをしないように挑戦します。
当然、高市君はスポーツがぐんぐん伸びていきました。
学校では「失敗をしないように」と教えられます。
しかし、本当に大切なことは、失敗をしないことではありません。
失敗をしてもくじけないことが、本当に大切なことなのです。
ボクシングでも本当に強い人は、倒れない人ではなく、倒れても起き上がる人だといわれています。
いくら倒れても、何度も起き上がる人には、粘り強さを感じます。
倒れても起き上がることができる人は、もう一度チャンスをつかめる人です。
何度でも起き上がれる人は、何度でもチャンスをつかめる人です。
高市君はサッカーがうまくなったのは、先天的な才能ではなく、単純に諦めなかったからです。
失敗にくじけない習慣を持っていたからです。
社会では、上司に怒鳴られたり、恥ずかしい失敗をたくさんしたりする機会が出てきます。
「学校では失敗しないように」と教わりますが、本当に大切なことは「失敗してもくじけない」ということなのです。
学校では、先生だけが先生です。
教える人といえば、先生。
学ぶ人といえば、生徒。
学校では「先生以外の人からも学びなさい」ということは教えてくれません。
先生が一方的に授業を進め、教える側と教えられる側がくっきりと区別されます。
学校では、先生が、絶対的なのです。
私もその昔、先生は、学校にいる偉い大人だと思っていました。
「年下の人が年上の人より詳しいわけがない」と思っていたのです。
しかし、ちょっと視点を変えてみましょう。
見方を変えると、学ぶべき点は、勉強面だけではないことに気づきます。
マナー、話し方、言葉遣いなど、見習うべきことはたくさん発見できます。
大人に成長していくにつれて、先生だけが先生ではないことに気づきましょう。
言葉遣い、マナー、態度、考え方など、同じ世代の人にも、素晴らしい人はたくさんいることに気づきます。
社会では、同僚からも数多くのことを学ぶ姿勢が必要です。
上司だけから学ぶのではありません。
成長できる人は、出会う人すべてを先生にします。
同じ年の友人でも、立派な先生です。
出会う人すべてが、先生になるのです。
学校では、成績優秀の人が主役になります。
学級委員長といえば、決まって成績のいい人が選ばれます。
しかし、カラオケでは、音痴の人が主役になります。
これが、カラオケの面白いところです。
学生時代、タツヨシ君という音痴の友人がいました。
何の曲を歌っているのかわからないほどの、音痴です。
彼が歌うと、まったく違う曲に聞こえます。
まったく新しい曲になり、カラオケボックスは笑い声だけになります。
乗りの良い曲も、タツヨシ君が歌うだけで、笑いの止まらない曲に変えてしまうところはすごいと思います。
笑ってはいけないと思うほど、笑いが止まらなくなり、聞いている人を笑いのうずに巻き込みます。
カラオケでは、下手だからとはいえ、聞いている人は怒ることはありません。
「もっと歌ってくれ」と頼まれ、アンコールになります。
楽しいことが、いちばんなのです。
学校では、難しい顔をして勉強しています。
難しいことを考えているから楽しくなくなり、険しい表情になるのです。
頭のいい人が、うっかり問題を間違えるとほっとするものです。
意外な人が、テストで悪い点を取っていたり、間違っていたりすると、ほっとしませんか。
実はみんな、難しいことは嫌いなのです。
楽しさを求めているのです。
カラオケでは、歌がうまい人が歌い始めると、妙に場が白けてしまいます。
次に歌う人が、歌いづらくなります。
歌がうまければうまいほど、冷たい雰囲気になってしまい「もう帰ろうよ」という気持ちになります。
その反面、音痴の人が歌い始めると「もっと歌ってくれ!」とアンコールになり、盛り上がっていくのです。
カラオケでは、音痴の人が主役になるのです。
学校では、難しい顔をしていると一生懸命に勉強していると見てくれます。
険しい表情をして、額に汗を流して勉強していると「偉いね」と言われます。
しかし、これは、本当に良い勉強法ではありません。
難しくて面白くないと感じることは、身につかないことが目に見えています。
勉強は、楽しいと感じる人ほど、身につき、成績もよくなるのです。
中学生のころ、西岡君という友人がいました。
彼は数学や理科は誰にも負けないくらい、いつも成績が良かった。
そんな西岡君は、不思議にいつも楽しそうな表情をして勉強をしているのです。
難しい顔をして勉強することが良いことだと思っていた私は、いつも不思議でたまりませんでした。
数学や理科の話をすると、笑って話をしながら教えてくれます。
ある日、西岡君に「なぜそんなに成績がいいの」と聞いてみたことがあります。
すると「楽しいから」というあっさりした返事が返ってきました。
「楽しいから勉強する。
勉強するともっと楽しくなる。
それだけだよ」。
学生のころに聞いたその言葉を、そのときは軽く聞き流していました。
しかし、実際に社会に出て、仕事のできる人や頭の切れる人は、決まって「楽しんでいる人」です。
難しく険しい表情をしている人に限って、仕事が遅くて、質が悪い。
嫌いだという感情があると、スピードが落ちて、熱心さ、集中力、根気が欠けてしまいます。
私は昔、難しい顔をしている人が頑張っている人だと思っていましたが、大きな間違いだったのです。
本当に頑張って成果を発揮できる人は、楽しんでいる人なのです。
「お金持ち」という言葉があります。
その名のとおり、たくさんのお金を持っている人という意味です。
お金をたくさん持っている人が偉いと考える人は、まだ子どもです。
なぜ子どもなのかというと、お金を持とうとばかり考えているからです。
お金を持っているだけでは、まだ単なる紙切れを持っているというだけです。
お金は使ったときに、初めてお金になります。
持っているだけでは単なる精神安定剤でしかない。
使ってこそ「お金」です。
お金持ちは、たくさんのお金を持っているだけであって、お金を使っているとは限りません。
使ってこそ、リッチであり、裕福なのです。
意味があり、効力を発揮するのです。
この事実を知っていれば、お金は持つことより、使うことが重要であることに気づきます。
当然ですが、学校ではお金の話は下品という意識がいまだに根強く残っています。
そのためか、お金の話は避けようとしますし、お金の使い方も当然ですが教えてもらえることはありません。
私は長い間、お金をたくさん持っている人が偉いと思い込んでいたものです。
ところがです。
社会に出て、立派な人ほどお金をたくさん使っているではありませんか。
自分のためにお金を使い、自己投資をします。
自己投資をしてパワーアップした自分で、またお金を稼ぎ、自分に投資します。
たくさんお金を使っている人ほど、幸せそうなのです。
お金を持つことばかりに気が向いている人は、お金の使い方を知らない人です。
お金を持っていても、使うまでは、貧乏な人と同じなのです。
使ったときに、初めて「差」がつくのです。
使えば使うほど、ほかの人と差ができるようになり、成長します。
持っている人が、偉いのではありません。
使う人が、偉くなるのです。
私はHAPPY LIFESTYLEで文章を書いているうちに、簡単なことほどレベルが高く難しいことに気づくようになりました。
簡単なことほど難しいとは、ちょっとおかしな表現です。
しかし、難しくすることのほうが実は簡単なのです。
ごまかせるからです。
ピアノの演奏でも難しい曲を演奏するときは、たくさんキーを叩きますから1つくらい間違えてもごまかせます。
聴いている聴衆も、1つや2つ、間違ってもわかりません。
第一、難しい曲は、初めて聞くような曲ばかりですから、正しいのか間違っているのかさえわからないはずです。
しかし、簡単な曲はごまかしが利きません。
簡単な曲ほど、一般に知れわたっており、キーを叩く指に集中が必要です。
1つでも間違えると、目立ちます。
ごまかせないのです。
またみんなで歌う「合唱」も、大勢の中の1人が歌を間違えてもわかりません。
しかし、1人で歌うソロは、一声間違えただけでとても目立ちます。
1人で歌うほうが簡単と思われますが、実は1人で歌うほうが格段に難しいのです。
ミュージシャンでも、レベルの高いミュージシャンほど、ソロで演奏して歌います。
初めはユニットを組んでいたバンドも、レベルが高くなり、ソロへと変更するという話はよく耳にすることです。
文章も同じようなことがいえます。
漢字が多く使われ、難しい表現や言い回しがたくさん出てくるような文章は、難しそうに見えます。
しかし、実際は、難しいのではなく「難しそうに見せているだけ」であって、実は書き手の表現力が乏しいだけです。
難しい文章は、複雑な言葉を使っていれば難しそうに見せることができ、意味が通じなくても読み手の責任にさせることができます。
しかし、本当にレベルの高い人は、必ず読み手のことを考えます。
そもそも本は、読まれるものですから、読み手のことを1番に考えてこそレベルの高い文章ということです。
読まれる文章ほど、簡単でわかりやすい表現を使い、漢字の量も少なく抑えています。
小学6年生でもわかる文章が、本当にレベルの高い文章なのです。
わかりやすい表現を組み合わせ、わかりやすい漢字を使い、誰でも読める文章に仕上げることは、それこそ匠の技です。
私はその昔、レベルは高くなることは、難しいことができるようになることだと思っていました。
複雑で難しいことができるような人は、レベルが高い人だと思っていました。
小説の中にたくさん難しい漢字が出てくると「この文章はレベルが高い。大人の文章だ」と思っていたものです。
難しいことが、大人である証しだと思っていたのです。
しかし、自分が書き手になったとき、レベルが高くなればなるほど、わかりやすい文章を書かなければならないことに気づきます。
実際に、昔の私の文章より、今の文章のほうが、漢字の量が少なく、わかりやすい言葉や表現をたくさん使っています。
自分のレベルが高くなればなるほど、簡単なことの難しさがわかるようになりました。
本屋で見かける「わかりやすい」「漢字の量が少ない」文章を見かけると、思わずレベルの高さに驚きます。
いかにわかりやすく、いかに簡単に表現できるかに、著者のレベルの高さが映し出されます。
「素晴らしい」と思い、感動してしまうのです。
学校では「国語」「算数」「理科」「社会」という科目はあっても「恋愛」という科目はありません。
恋愛は、人間なら誰しも経験する大切なことであるにもかかわらず、学校では積極的にそのノウハウを教えようとしません。
男性が女性に話しかける上手な方法や、女性が良い男性を見分けるコツなどは、誰もが必要としている知識です。
にもかかわらず、先生はその話題に触れようとしないのです。
私は、思春期である中学生のころ、恋愛が最も興味のある科目でした。
黒板で行われている国語の授業より、隣の席に座っている女の子のほうが気になり、授業に集中ができなかったくらいです。
国語より、恋愛に興味があったということです。
恋愛は学校で教えてくれませんから、自分から学びにいくしかありません。
友人の話を聞いたり、本を読んだりすることで「恋愛とはこういうものだ」と学んでいきました。
国語や算数の勉強は頭に入ってきませんでしたが、恋愛の話には不思議なことに集中ができ、頭に入ってくるようになります。
そんな中学時代のある日のこと、ある1人の女の子が、私に告白してきたことがありました。
これが、まったく意外な人だったのです。
恋愛は、気になる人は話しかけてこない一方、気にもしなかった人が話しかけてくるものです。
驚いて、あたふたした自分を、今思い出しても恥ずかしい。
友人からの話も、本に書いてあることも、何の参考にもならなかったことを覚えています。
「実際の恋愛は、やはり違うな」
そう思ったのが、当時の感想でした。
恋愛は、頭で学ぶことではありません。
実際に自分が体験してみないとわからないことばかりです。
思ったよりうまくいかなくて、本当の恋愛です。
漫画やドラマでは、最後は必ずハッピーエンドで終わります。
ですが、現実の恋愛はといえば、必ずしもハッピーとは限りません。
たいていは「うまくいっていない恋愛」がほとんどだったりするのです。
中学生のころ、自分が初めて実際の恋愛を経験し、案の定うまくいかず、本当の恋愛を知ったのでした。
学校では、カンニングは教えてもらえません。
テストでカンニングをしようものなら、先生に叱られるだけでなく、0点にされます。
カンニングのノウハウ、技術、テクニックなど、学校ではまったく教えてくれないのです。
しかし、社会に出ると、カンニングは必須項目であることに気づきます。
むしろカンニングができないと、生き残っていけません。
社会人として必要な技の1つです。
会社で仕事を進めていると、自分の頭ではどうしてもわからないことがたくさん出てきます。
事前にカンニングペーパーの1つでも用意しておかないといけないことがあります。
会議で発表を行うときには、スムーズに進めることができるよう、事前にメモを用意します。
重要なプレゼンでは、メモを用意しておかないと、言いたいことを忘れます。
説明書のない機械の動かし方は、知っている人に聞かなければわかりません。
うまく進めるために、カンニングペーパーを用意することは当たり前です。
わからなければ、知っている人に直接聞かないと仕事を進めることができません。
まず自分の頭で考え、わからなければあっさり他人に聞いてしまってもいいのです。
わからないことがあったら「知っている人に教えてもらう」ことができないと、いつまでも仕事を進めることができなくなります。
カンニングをしなければ、仕事はできないのです。
カンニングこそ、学校では教えてくれない大切なことです。
カンニングができるようになり、ようやく仕事ができるようになるのです。
学校では、無駄なことを嫌います。
勉強もできるだけ効率よく進めようとします。
無駄な知識も、黒板に書くことはありません。
学生時代は時間が限られているため、無駄なことをしないで力をつけさせようとします。
しかし、大人になると、無駄なことのほうが、役立っていることが多いのです。
本当の力をつけさせようとするなら、無駄をどれだけたくさんこなしてきたかが勝負になります。
私は小学生のころから、漢字が好きでした。
先生に宿題を出されなくても、授業中暇があれば、漢字の練習をしたり、文字の稽古をしていたものです。
中学2年になったころの話です。
ある日「世の中にはこんな漢字もあるのか」と衝撃を受ける出来事が起こります。
今までひらがなで書いていた「ちょっと」という言葉に、実は漢字があることを知るのです。
「ちょっとだけもらう」「ちょっとだけ見る」といったときに使う「ちょっと」です。
あなたはこの言葉に、漢字があることを知っていましたか。
漢字で書けば「一寸」と書きます。
あるアドベンチャーゲームをしていたときに「ちょっと」という言葉が「一寸」と書かれていたことを機会に知りました。
私はてっきりひらがなしかないと思っていただけに、驚いたものです。
漢字の由来も調べてみると「一寸(いっすん)」という長さは、ちょっとだから「当て字」として書くようになったそうです。
次の日、友人に言いふらしたくらいです。
そのほかにも、意外な言葉に漢字があります。
夏にみんみんと鳴く「セミ」も、漢字で書くと「蝉」と書きます。
背が高く伸びる花である「ヒマワリ」も、漢字で書くと「向日葵」と書きます。
人の話を聞いて相槌を打つときに使う「なるほど」という言葉も、漢字で書けば「成る程」となります。
図書館の『歳時記』という辞典を眺め、今まで知らなかった難しい漢字を見つけ、1人で感動します。
今まで知らなかった言葉をたくさん知り、放課後の図書館で漢字を調べては、1人で「なるほど」とうなずいていました。
とはいえ、難しすぎる漢字です。
学校のテストに出ることはありません。
先生に尋ねても「難しくてわからない」と答えるような漢字ばかりです。
まったく無駄な努力をたくさんしていました。
友人は「そんなことをやっても意味がない」と侮辱されます。
しかし、私は純粋に楽しくてそうしていたのです。
漢字の不思議な世界に夢中になりました。
難しい漢字をたくさん知ることで、日本語に興味を持ち、今このように文章をたくさん書くことにつながっています。
今では難しい漢字で書くことはなかなかありませんが、昔、漢字に燃えた時期があったからこそ、今があると思っています。
無駄なことほど、本当に力になるのです。
野球の素振りも、一見無駄の塊に見えます。
ボールも飛んでこないのに、バットを振って意味があるのかと思っていました。
しかし、実際、野球界で有名な長嶋茂雄さんも、王貞治さんも、素振りこそいちばん時間をかけて練習をしたといいます。
「こんなことをやって、本当に意味があるのか」
無駄とも思える努力を積み重ねて、徹底的に基礎を固めることで、揺るぎない本当の力を身につけることになります。
たくさんの無駄を経験しておかないといけないのです。
本当の力とは、たくさんの無駄の塊からできているのです。
私が高校1年生のころの話です。
当時、私は学級委員長を務めていました。
クラスには、何人か「ヤンキー」と呼ばれる人がいて、手を焼いたものです。
ヤンキーは強いから、そうなるものだと思っていました。
しかし、実際に、学級委員長として見ていると、ヤンキーと呼ばれる強い人ほど、実は弱いことに気づきます。
仲間と一緒でなければ、行動しません。
1人では恥ずかしくて度胸がないので、動こうとしません。
自分が恥をかくシチュエーションは、避けようとします。
先生に叱られると侮辱されないように、歯向かいます。
家族構成の話を聞くと、決まって1人親であったり、親からの愛情を受けていない人であったりします。
強そうに見えていたヤンキーですが、実は弱かったのです。
弱いから、そのコンプレックスを隠そうとして、強そうに見せているのです。
学校ではヤンキーを邪魔者扱いしますが、本当はいちばんケアをしてあげないといけないのです。
学校は、勉強を教えてくれます。
知識をたくさん叩き込まれるところです。
しかし「勉強」は教えてくれますが「勉強法」は教えてくれません。
人間が覚えるときには、質の良い勉強法があって、初めて効率よく覚えられ、身につけることができるようになります。
成績の悪い人、覚えられないと言っている人は、決まって勉強法が悪い。
覚えられないような覚え方で覚えようとするから、覚えられないのです。
覚えられるような方法を使って、吸収していかなければ、学生時代の勉強の波に飲み込まれます。
たとえば学生時代には「鎌倉幕府ができたのは1185年」と教わります。
勉強法を知らない人は、そのまま「鎌倉幕府=1185年」と覚えようとします。
しかし、勉強法がうまい人は「いい箱(1185)つくろう、鎌倉幕府」と覚えます。
あなたもこうした覚え方を、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
頭がいい人のほうが、面白おかしく覚えているものです。
10年以上も昔の記憶ですが、いまだに覚えています。
覚える方法を知っているかいないかが、学業の勝敗を分けるポイントになるのです。
自分は悪くないのに、謝らなければならないことも、学校では教えてくれないことの1つです。
学校では、必ず悪いことをした人が謝ることになります。
当然といえば、当然です。
しかし、社会に出れば、悪くなくても謝らなければならないことを知っておかなければなりません。
まったく悪いことをしていなくても、頭を下げて「すみません。申し訳ございません」と謝る機会がたくさん出てきます。
非は自分にないけれど、建前上謝らなければならないことが出てきます。
たとえば、電話のクレーム対応です。
クレーム対応では、謝ることが仕事です。
商品の使い方がわからないときに「使いやすいものをつくれ!」というクレームに対応しなければなりません。
商品を作った人間は自分ではなくても「申し訳ございません。今後の課題とさせていただきます」と謝らなければなりません。
私は社会に出たとき、上司の失敗を尻拭いするため、部下である私が謝ったことがあります。
上司が謝ってしまうと、話が大きくなり、問題も大げさになります。
私が失敗したということにしておけば「若気の至り」ということで、問題を小さく収めることができます。
こんなことは、社会に出れば日常茶飯事です。
悪くないのに謝らなければならないことは、しょっちゅうあるのです。
学校では「親に頼ってはいけない」と教えられます。
優しい親思いの子どもに育てるために、建前上は、そう教えます。
しかし、小学生から大学生くらいまでは、親の援助に頼らないといけないのです。
学校では教えてくれない大切なことの1つです。
一部の家族上の仕方ない理由を除き、親の援助に頼らないと、学生時代に勉強ができなくなります。
社会に出たときには、すでに人ができています。
能力の差や頭の良さが、ほぼ固まっています。
いつ、出来上がったのかというと、学生時代にどれだけ一生懸命に勉強し、遊んだかにかかっているのです。
学生時代にたくさん勉強をして、思いきり遊んだ人間が、社会に出てから有利になります。
社会に出てからでは、もう遅い。
社会人になってからでは、時間もお金もないからです。
時間がたくさんあると同時に、親からの援助を許される時期は、学生時代しかありません。
学生時代は、親の援助に素直に頼って、勉強と遊びをたくさん経験することが大切です。
今、私がこのように本を書くことができている理由は、社会人だからではありません。
学生時代に親の援助に頼って、たくさん勉強と遊びをしてきたからです。
お金は親が出してくれるからと、興味のある本を、片っ端から読んでいきました。
アメリカへ留学したり、旅行をしたりなど、多くのことを経験させてもらいました。
しかし、そのおかげで、たくさんの勉強と経験ができ、今を豊かに生きることができているのです。
勝負は「学生時代にどれだけ親の援助に頼れるか」にかかっています。
「親に悪いから」と遠慮していると、十分な勉強ができなくなります。
親は、意味もなくお金を使わせてくれているわけではありません。
大人である親は「学生時代はたくさん勉強してほしい」という願いを込めて、お金を出してくれるのです。
きちんと親の願いを受け取って、一生懸命に勉強と遊びをして立派に成長しておかないと、親不孝になります。
親の援助に頼る人間が、親不孝になるのではありません。
親からの援助を遠慮して、何も成長しないで大人になることが、いちばんの親不孝です。
親不孝をしたくなければ、学生時代のうちに、ありがたく親の援助を頂きましょう。
その代わり、一生懸命に勉学に励むことです。
私の学生時代の勉強に関するお金は、すべて親が出してくれました。
自分でお金を稼ごうとすると、親が怒ります。
「アルバイトをする時間があるなら勉強しなさい。そのために親はお金を稼いでいる。学生時代の時間は、本当に短い」
私はこの親の言葉に素直に従い、アルバイトをしない代わりに、一生懸命に勉強したものです。
学生時代の思い出といえば、いちばんに勉強が思い浮かびます。
好きなことを、好きなだけ勉強していましたから、楽しい記憶でいっぱいです。
お金稼ぎは、社会人になれば、毎日できるのです。
勉強とは本来、やらされることではなく、自分からしていくものです。
学校では「勉強をしなさい」と耳にタコができるほど言われます。
「しなさい」と何度も言われることが影響して「勉強とは、やらされるもの」と思ってしまうのです。
私も小学生のころは、先生と親から「勉強をしなさい」と言われていましたから、勉強とはさせられる嫌なことだと思っていました。
勉強の話になると、表情が悪くなっていたものです。
しかし、高校2年から大学への受験勉強をきっかけに、初めて自分から進んで勉強するようになりました。
すると、とても勉強が面白いのです。
楽しいのです。
「勉強はこれほど面白かったのか」と思い、勉強に熱中していました。
当時は、英語と数学に熱中し、特に力を入れて勉強をしていました。
いえ、勉強で遊んでいたといっても過言ではありません。
普通に遊んでいるのと変わらないほど、わくわくするようになり、勉強ばかり1日中していたものです。
嫌だからではありません。
楽しいから、1日中勉強ができたのです。
比例して、成績も上がっていきました。
そんなとき思いました。
「勉強とは、やらされることではなく、自分から進んでしていくもの」
成績のいい人に限って、楽しく勉強しているのは「やらされている環境」にいないからです。
親からも勉強を強要させられるわけではありません。
自発的なエネルギーです。
モチベーションが強く、勉強も長続きするのです。
成績のいい人に限って「平気な顔」をしているものです。
自分から進んで勉強しているから楽しくて、平気な顔ができます。
むしろ成績の悪い人に限って勉強を難しく考えているものです。
やらされていると感じているから「勉強」という2文字を見るだけで、吐き気がします。
だからです。
勉強をやらされる環境や、やらされていると感じているなかでは、いつまで経っても本当の勉強はできません。
本当に勉強をしようと思ったら、自分から進んでいくしかないのです。
自分の興味を原点に「なぜだろう」「なるほどね」と感動を求め、勉強していくことがいちばん楽しくて効果が高い方法なのです。
私は読書をするとき、楽しいとしか感じません。
たしかに小学生の私なら「やらされている」と感じ、苦痛で仕方なかったことでしょう。
しかし、自分が好きなことからでいいのです。
興味のある分野から進んで勉強していくと、ゲームと同じようにわくわくするのです。
読書は私にとって、遊びと変わらないのです。
学生時代は「止まり方より、走り方」を意識することです。
学校では、走り方より、まず止まり方を勉強させます。
いえ、止まり方ばかりを勉強させるといっても過言ではありません。
生徒にもしものことがあってはいけないと、止まる練習、止まる方法ばかりを集中して教えます。
だから行動できない大人に育ってしまうのです。
学生時代から止まることばかりを意識していては、肝心の走ることに気が向かなくなります。
走る練習をして、止まるときには体当たりでいいのです。
私は高校時代、体操部でした。
顧問である吉成先生は「水口、思いきり体当たりでいけ! 危ないときは先生が補助してやる」といつも言っていました。
この言葉のおかげで、もしものことがあっても先生が助けてくれると安心感があり、体当たりで技に挑戦できたのです。
危ないことばかり考えていると、何もできなくなります。
「もしこうなったら、どうしよう」と考えていると、動けなくなります。
危険なことを考えていると、何も行動できない人間に育ってしまいます。
子どものころから、止まり方ばかり考えていては、将来大人になったとき行動できない大人になってしまうのです。
若いうちは、まず体当たりでいいのです。
若いうちなら、失敗も許されます。
もし、失敗すれば「ごめんなさい」と言えばいい。
できなかったら謝ればいい。
できなくて当然の時期に「もし、失敗したら」なんて考えることではないのです。
止まり方より、走り方を意識して、若いうちこそ行動最優先にすることです。
学校の勉強では「0 + 3 - 3 = 0」となります。
3を足して、3を引けば、0(ゼロ)になります。
「3歩進んだ、3歩下がった、結局元の位置に戻った」ということです。
「行動した。でも失敗した。結局ゼロである」という考え方です。
たしかに算数の世界では間違いありませんが、現実では違います。
現実では、3歩進んで、3歩下がれば、6歩歩んだことになります。
進んで戻るのですから、スタート地点に戻ることになりますが、それでも歩んだ歩数は6歩になります。
進んだ距離は増えています。
「告白した。でも断られた」
これは、意味がないように思えます。
行動したけど、成就しなかったため、何も実りはありません。
しかし「恋愛経験ができた」という経験が増えています。
ここに気づかなければなりません。
3歩進んで3歩下がって元の場所に戻っても、実は成長ができているのです。
学校では「3歩進んで3歩下がれば、意味がない」と教えますが、実際はそうではないのです。
何があろうと、とにかく進んだ分だけ成長があるのです。
進むだけでなく、下がることも成長です。
学校では、こんな大切なことを教えてくれません。
歩く歩数が増えることには変わりありませんから、いずれにせよ前に進んでいるのです。
現実において、成長が後退することはありません。
成長には、3歩進んで3歩下がれば、6歩となるのです。
学校では、私たちの体が神様からの借りものであることを教えてくれません。
自分の体は、自分のものだと思い込んでいます。
しかし、実際、自分で自分を作った人など、この世には1人も存在しないのです。
私は両親によって生み出されました。
そんな両親も自分で自分を生んだわけではなく、さらに親が存在しているはずです。
元をたどっていけば、生みの親は地球であり、地球の生みの親は太陽系であることに気づくのです。
究極的には、宇宙こそが、すべての生みの親になります。
人も、本も、海も、空気も、火星も、木星も、銀河系も、宇宙の一部であり、宇宙がつくり出したものです。
宇宙があらゆる万物に姿形を変えて、表現されているだけです。
本も宇宙の一部。
人も宇宙の一部。
空気も宇宙の一部です。
原子の密度や組み合わせによって、水や酸素が表現されています。
人間も組み合わせからできています。
元をたどれば、すべては宇宙からできているのです。
肉体も宇宙の一部であり、宇宙という神からの借りものです。
いずれ土に還るときが、必ずやってくるのです。
自分の体は、神様からの借りものだということに気づくことが大切なのです。
学校では「けんかはしてはいけない」と教えられます。
「けんかをしなさい」と教わることはありませんから、けんかを知らないし、弱い子どもが育ちます。
社会に出ると、けんかをしなければならないことばかりです。
そもそも資本主義社会は「競争の世界」ですから、いつも争ってけんかばかりです。
けんかとはいえ、殴り合いのけんかではありません。
大人には、別のけんかの仕方があります。
手を出さずして、相手と争うけんかです。
相手が偉そうな態度を取ってくるほど、こちらは親切な態度で接することが、けんかに対抗するのと同じになります。
相手はあなたを挑発して「かかってこいよ。ばか」とやじを飛ばしてきます。
大人のけんかでは「そうですね。私はばかですから教えてください」と返します。
すると、相手は拍子を抜かしてしまいます。
相手の言葉を使って、うまく跳ね返し、精神的に落ち込ませることが大人のやり方です。
けんかはけんかでも、手を出さずして、勝つ方法があるのです。
出る杭を育てる先生は、なかなかいません。
一人ひとりが個性的でも、個人の成長を尊重して先生はそっと見守ってくれていると、生徒も個性を伸ばせます。
しかし、みんなと同じような行動を取ることを強要させるのです。
日本には「協調性」を重視する文化があり、日本の良いところでもあり、悪いところでもあります。
話し合いで「賛成の人は手をあげてください」と言えば、ほかの人の顔をうかがいながら、手をあげるかどうかを決めてしまいます。
みんなが手をあげていると、それに自分も合わせ、手をあげます。
自分は反対でも、みんなが手をあげないときには、自分も手をあげません。
協調性を大切にすることはいいのですが、協調性を大切にしすぎるがために、本当に正しい判断がしづらくなってしまうのです。
学校では、協調性を重んじるがために、みんなと同じことばかりやらせようとして、出る杭は打たれます。
変わった人がいると、避けられます。
出る杭を育てようとしないため、金太郎飴のような、どこで切っても同じような顔が出てくる人間ばかりが育ってしまうのです。
矛盾という言葉があります。
矛盾とは、つじつまのあわないことを言います。
学校では、矛盾した考えを嫌います。
つじつまを合わせていないと、先生に叱られてしまいますが、社会に出れば矛盾した考えは山ほどあります。
私が会社に入社したときに「きれいにつくれ」という指示と「早くつくれ」という指示を、同時に受けたことがありました。
あらためて考えると、無理なのです。
早くつくろうと思えば、雑になります。
しかし、きれいにつくろうと思うとどうしても、時間がかかります。
どうすればいいのかと、頭の中は疑問符でいっぱいになったものです。
はじめこそはこんな矛盾した指示に驚いていましたが、だんだん「それが普通であること」に気づきました。
社会では、矛盾がまかり通っている世界です。
矛盾ばかりの指示が飛んできて、当たり前です。
社会では矛盾を意識しながら、臨機応変に対応することがポイントです。
つじつまがあわないことを、うまいぐあいに進める臨機応変こそ、社会では大切な能力の1つなのです。
三日坊主は、できるだけやめるように学校では教わります。
すぐ諦めては根性が身につかず、情けないことだと思われます。
しかし、本来、三日坊主は必要です。
たくさんの三日坊主を経験した人が、将来大きくなり、仕事も人生もうまくいくようになります。
三日坊主を経験することで、自分の適正を早く知ることができるからです。
実際はやってみないとわからないことが、たくさんあります。
新しくピアノを習い始めてから「自分には合わない」とわかれば、3日後にはやめてもいいのです。
ピアノが自分に合わないことがわかっただけでなく、時間も節約できます。
節約できた時間を使って、また新しいことを始め「自分に合わない」と思えば、さっさとやめてしまうことです。
するとなかには「これは自分に合っているぞ」ということに出会います。
それこそ、まさにあなたに適していることです。
才能につながる手がかりです。
私は、絵を描くことは苦手です。
絵を描いても「うまく絵が描けない」と思い、すぐさじを投げてしまいました。
歌を歌うことも、嫌いではないのですが、気が進みません。
しかし、文章を書くことだけは違いました。
初めから、妙にうまく書け、すらすら指が動きます。
こればかりは自分でも不思議でした。
なぜ自分は書くことに関してだけはうまくいくのかということは、天の神様に聞いてみないことにはわかりません。
初めから、私に与えられている「特質」であり「素質」です。
少なくとも、これが自分に適しているということがわかりました。
絵や歌など多種多様なことにトライしては、すぐ諦めると、消去法で自分の才能を見つけ出していけます。
才能は、初めから、ある程度うまくいきます。
同じ努力をしているのに、ほかより成長が早く、同じ時間をかけていても伸びが早い。
それでいて、面白いと感じることです。
自分の才能や自分の適職を見つけるためにも、まず三日坊主が必要なのです。
金銭感覚は、人間が生きていくために必要になる感覚です。
金銭感覚がないと、お金を意味もなくたくさん使ってしまうことになり、すぐ貧乏になります。
食べるものに困り、着るものに困り、生活に困ります。
子どものうちは、親が面倒を見てくれるから、金銭感覚がなくてもやっていけます。
しかし、大人になってからはそうはいきません。
自分でお金の管理をしなければならなくなり、自分の金銭感覚が頼りになります。
大人になってから金銭感覚の勉強をするようでは、少し遅いです。
できるだけ早いうちから、本物のお金を持たせ、自分で管理する勉強をしなければなりません。
私の親は、私のお金に手を出すことはありませんでした。
お小遣いも「自分で管理しなさい。なくしても知りません」と言い、お金のすべてを管理させました。
お正月のお年玉で大きなお金が手に入っても、没収しません。
「自分で管理しなさい」と言います。
そのおかげで、私は子どものころに、お金を管理する癖がつきました。
お金の管理は、子どものころからしていることなので、慣れています。
金銭感覚を早くから身につけることで、大人になってから助かっています。
お年玉で大きなお金をもらうと「子どもがそんな大金を持ってはいけません。預かっておきます」と没収する家庭をよく見かけます。
そんなことをしていては、子どもの金銭感覚はどこで磨くのでしょうか。
学校でも、家庭でも教えてくれないのでは、子どもの将来が心配です。
子どもにあえてお金を持たせ、自分で管理させることで、お金の使い方、管理の仕方、使い道を学ばせる必要があるのです。
金銭感覚は、教科書から学ぶことはできません。
体験を通して、初めて体感できる感覚なのです。
土壇場を経験している数によって、いざというときに強くなります。
急に起こる出来事に強くなり、冷静さを失わず、対処できるようになります。
もちろん計画的な出来事では、焦りは経験できません。
学校でも教えてくれませんし、家庭内でさえ、思うように経験させることができないことです。
土壇場は、チャンスがあるときに、徹底して経験しておくことが必要です。
私は今まで、土壇場を何度か経験したことがあります。
特に火事は、過去に3回も経験したことがあります。
20代半ばにして、火事を3回も経験したことがあるのは珍しいことです。
留学時代、私はホテル暮らしをしていました。
そのホテルは、留学生を専門で扱う格安ホテルであり、世界各国からの留学生たちがたくさん暮らしていました。
語学学校と契約しているため、通常のホテル料金より安いとのことです。
そんなある日、深夜の2時ごろでした。
私は勉強で、まだ起きていたときのことです。
なんか、焦げ臭いのです。
もともと安いホテルだし、マナーの悪い人がたくさん住んでいます。
誰かが深夜に、料理でもしているのかと思っていました。
突然「リリリ」と、ベルが鳴り始めました。
夜中にマナーの悪い人が、廊下で何かやっているのかと思い、初めは無視していました。
「おいおい、気づけよ」と突っ込まれそうですが、海外での生活は何でもありです。
ホテル内も世界各国からの留学生がいたため、文化が入り交じっている状態です。
夜中に変な音がしたり、おかしなにおいがしたりすることは、当たり前によくあることでした。
そんな現象に私も慣れ、焦げ臭いにおいにも、うるさいベルの音にも「またか」と普通の顔をして、無視をしていたのです。
それが5分くらい経ったことでしょうか。
うるさいベルの音が、なかなか鳴りやまないのです。
「おいおい、さすがに止めてくれよ。誰だよ」
そう思って、私が部屋の扉を開けて廊下に出た瞬間、すべてが理解できたのです。
はっきりした「何かが燃えているにおい」と「白い煙」が廊下に立ち込めている様子から「火事だ」と理解したのです。
まもなくして、同じことを考えていたのでしょう。
ほかの部屋の住人も「おいおい、さすがに止めてくれよ。誰だよ」と思いながら廊下に顔を出し、同じことを理解したのです。
今まで話したこともなかったお隣さんとも、これが機会で知り合い、友人になりました。
火事がきっかけで、できた友人です。
次にホテルの外では、消防車のサイレンが鳴り始めました。
1台だけかと思っていると、ホテルの周りを、なんと20台もの消防車が囲んでいます。
「短い人生だったけど、楽しかった」
私は一瞬、自分はもうダメになるのではないかと考えてしまいました。
私は5階の部屋に住んでいましたから、すぐ階段を使って、ホテルの1階へ降ります。
ところが下へ降りるほど、煙が濃くなり、呼吸がしづらくなります。
なんと発火場所は、1階だったのです。
1階にはフリールームと呼ばれるゲーム機やソファー、大きなテレビが置いてある部屋がありました。
そこが発火場所だったのです。
私が外に出ると、すでに100人を超える住人たちが避難していました。
日本人、韓国人、中国人、ベトナム人など、さまざまな顔ぶれが、英語という共通語を通して、火事について話しています。
パジャマ姿の人もいれば、はだしの人もいます。
みんな必死に逃げたようです。
消防車が20台もやってきて消火活動を行えば、さすがに火は消えます。
1時間もすれば火事は収まり、そろそろまた眠気が襲ってくる時間です。
火も消え、眠気に負けた住人たちが、焼けたホテルに戻り、また寝始めます。
燃えたホテルに戻るということも、おかしな話です。
その日は無事に火事が収まりましたが、実は続きがあります。
2日後、また同じことが起こります。
同じホテルで火事があり、今度は2階の部屋が発火元です。
驚いたことにその部屋は誰も住んでおらず、鍵もかかっていた部屋でした。
明らかにおかしいのです。
住んでいた日本人留学生の間で、ある噂が広がり始めました。
「放火」です。
「鍵がかかっている誰もいない部屋から火が出るのは、明らかにおかしい。
ホテルに対して恨みを持った人間が嫌がらせでやっているに違いない」。
そんな話が広がり始めたのです。
2回目ですから火事が起こりベルは鳴っても、冷静に対処しています。
2回目の火事も収まりますが、さらに続きがあります。
次の日、またベルが鳴り始めたのです。
3回目の火事です。
1週間に3回も火事を経験するのは、珍しい。
さすがに3回目となると避難も面倒になり、みんな避難をしようとしません。
「もういいよ。勘弁してくれ」と思っているようで、部屋から出ようとさえしません。
人間は、慣れてしまうと恐ろしいものです。
友人の部屋に行き「避難しないの」と誘ったくらいです。
私も、3回目の火事になると、落ち着いていたものです。
焦りもありません。
しっかり手には財布を握り、ゆっくりホテルから避難します。
やはり今回の火事は、放火が原因とのことで、犯人も捕まったようです。
日本にいる友人に今回のことをメールで報告すると「君は珍しい経験をしたよ」と言われてしまったのでした。
学校では、夢について教えてくれますが、追いかけるための具体的な方法までは教えてくれません。
「将来は有名人になり、モテモテになる」
「歌手になり、ミリオンヒットを出す」
「プロ野球選手になり、メジャーリーグで活躍する」
「作家になり、本を出す」
「モデルになり、ファッション誌に載る」
こうした夢を描くことは悪いことではありません。
私の場合、幼稚園のころは「おもちゃ屋さんになる」という夢を持っていたことがあります。
しかし、学校では「じゃあ、夢を実現させるために今どうすればいい。これからどうすればいい」と言っても教えてもらえません。
先生も、1人でたくさんの生徒を抱えていますし、担任になっても1年しか付き合いませんから表面的なところしか述べません。
「夢は描いてもいいけど、後は自分の責任ね」と言っているのです。
具体的にどうすればいいのか、長期的に応援してくれる先生はとても少ないものです。
自分にしかわからないことです。
自分が努力しなければならないことですから、先生はその話題には触れないのです。
追いかける方法は自分で見つけ、自分が努力をするしかありません。
「頼りは自分一人」というわけです。
子どものころは親に頼り、先生に頼り、学校に頼り、頼ってばかりの生活です。
学校も毎日通い、無難に勉学をこなしていけば、幼稚園から小学校、小学校から中学校、中学校から高校と自動的に上っていけます。
子どもたちは誰かに頼れば、いつか自動的に夢も叶うだろうと思っているのです。
自動的なのは、学校までです。
夢の実現までは、自動的ではなく、自分の力を頼りにしなければならないのです。
こうした子どもたちが、大人になって現実を知り、自分で努力しなければならないことに気づいたときには、もう遅い。
夢の実現のためには「自動的」ではなく「自分の力」で積極的に進まなければいけないことを教えてあげなければならないのです。
それも、できるだけ早いうちにです。