逆説的に思えますが、不自由な人、不幸な人ほど、幸せになれるチャンスを持っています。
「幸せに気づくチャンスがある」と言ってもいいでしょう。
障害を持っている人は、幸せに気づくセンサーが敏感になっているからです。
障害、不幸、不自由があると、普段は感じられない何気ないことが、輝いて見えることがあります。
五体満足は、すべてが手に入っている状態です。
言うまでもなく、幸せですね。
しかし、初めからすべて手に入っているがゆえに、当たり前の大切さを見失いがちです。
幸せは、新しく手に入れることではなく、今、手にしていることに対して、感謝をすることです。
私は19歳のとき「胃腸炎」という炎症のため、入院をしたことがありました。
胃と腸の両方が同時に炎症を起こし、おなかが膨らんでしまっている状態です。
妊婦のように、おなかが膨れあがっている。
あまりの痛みのため、立つことすらできませんでした。
単なるけがの痛みは経験したことがあっても、立てないほどの激痛は、そのときが初めてでした。
ちょっと動けば痛くなり、体を少し動かすだけでも、痛い。
声を出したくても、声が出ないくらい痛かった。
普段は、いつでも何気なくできる行動に、なぜこんなに苦労しなければならないのだと思ったものです。
痛みのせいで、このまま死ぬのではないかと思ったほどです。
救急車を呼びたいが、目の前にある電話まで、動けない。
ほんの3メートルほどの距離が、やけに長く感じられる。
床を這いながら、目の前にある電話のところまで移動するのに4時間もかかりました。
その後、救急車で病院まで運ばれ、手当てのおかげもあり、数時間後ようやく痛みが治まりました。
そのときの「痛くない」という嬉しさは、今でもはっきり覚えています。
ちょうど友人が一緒に病院まで付き添ってくれていたのですが、いまだにそのときのことは、笑い話にされます。
「そういえば、あのときタカは、痛くないって喜んでいたよね」
「痛くないって、かなり嬉しそうだったよ」
そのときは、痛くないというだけで、本当に嬉しかったのです。
「おっ! 痛くないよ、痛くない!」と、子どものようにはしゃいでいました。
私にはそのとき、普通の人は見えないことが見えていたのでした。
痛くないという「当たり前の幸せ」を。
3日間の入院の後、退院でき、それからというもの健康に対しては不思議と敏感になりました。
痛くないことは、当たり前ではありますが、その喜びを知ることができた経験は私にとって貴重だと思っています。
二度と経験したくない出来事です。
もう一度経験したいかと聞かれれば、もちろん経験したくないと答えます。
では、あのときの経験は無駄だったかというとそうでもない。
むしろ、経験できてよかったと思います。
大切なことに気づくきっかけになったからです。
不自由さは、幸せに気づくチャンスと言われます。
ほかの人にはわからない幸せに気づくチャンスができた分、私はとても貴重な経験ができたと思っています。
生まれつき障害を持っている人がいます。
手足がなかったり、言葉をうまく話せなかったり、目が見えなかったりなど、障害にはさまざまな種類があります。
私は、五体満足として生まれ育っています。
不自由や障害を持った人の気持ちがわからないというのが、正直なところです。
わかったようなつもりになっても、そうした経験をしていないのですから、身をもって感じることはありません。
目に見えない当たり前の幸せは、障害が訪れたときに、初めて見えるものです。
不自由な障害を持っている人は、そうした当たり前の幸せにたくさん気づいているのでしょう。
私たちのように五体満足の人間には、経験しないとなかなかわからないことです。
一度経験しないとわからないように、実際に経験している人は、たくさんの幸せに気づいているはずです。
経験している人だけが知る、幸せです。
目が見えない障害があるとはいえ、実は見えない人こそ、真の幸せが見えているのです。